人一人の力などたいしたものではない。少々極端な言い方で、誤解を恐れずに書くなら、音楽行為の場合、どれほどテクニックがあろうと、どれほど音楽性が豊かであろうと、ソロはデュオやアンサンブルには敵わないのではないかと最近つくづく思うようになった。これは、もちろん演奏の「え」の字もできない僕が言えることではないことは承知の上で、単にひとりの音楽好きのあくまで勝手で主観的な意見だが。
僕は研修やセミナーを生業にしているせいか、チームワークや役割分担などにいつどこでも何を見てもついつい意識がいってしまう。人は誰でも「関係」の中で生きている以上、どうしても他者とうまくやっていかなければならない。時に悲しみや怒りというマイナス感情が生まれたり、あるいは楽しさや喜びというプラス感情が生まれる。本当は、そのこと自体が生きているということの証しだし、感情の起伏があって当然、人生山あり谷ありということさえ「わかっていれば」すべて受け容れることができるのだが、ついつい目先の幸不幸に左右され、軸がぶれがちになる。チームワークだとわかっていても、問題に直面すると、ついついそのことを忘れ、自己中心的な行動に走ってしまう。いつどんなときも、いかに「チームでシナジーを生み出せるか」が鍵だろう。
ところで、音楽をする場合。ひとりで孤独に楽器に向かう作業はやっぱり大変なことなのだと推測する。譜面と闘って、そして自身のイメージを楽器で表現することは自己との闘いに近い。そこにもう一人、あるいは複数のプレイヤーが絡むとどうなるのか。関係構築は一般的にもそんな容易いものではないのだから、こと演奏となると我々素人が想像する以上に難易度は高いかもしれないが、上手くいった時(いや、たとえ上手くいかなくても)の喜びというのは何ものにも代え難いものだろうとも思う。
この夏に、リハーサル時の譜めくりを経験してみて、プレイヤーのほんの数%だろうが、トリオの醍醐味を感じ取ることができた。あの何とも言えない緊張感と、そこからくる恍惚感。一音洩らさず他者の動きを感知しながら、しかも自分の音楽を奏でていくというプロフェッショナル。やっぱり、そこに人がいて自分が生かされているということ、そして自分も人に力を貸しながら生きているということ、大袈裟だが人間世界の「神秘」を痛感しながら、そのひとときを過ごせたという体験が何より貴重だった。
昨日(2010年12月6日)の朝日新聞「グローブ」は『職業としての指揮者』という特集。かつて独裁者として君臨した指揮者は、現在では楽員をモティベートし、スポンサーの接待まで奔走する第一線で活躍するビジネスマンのようにその姿を変えているという。つい50年ほど前までは、時に楽員に怒声を浴びせ、強烈なトップダウンで音楽を創り上げていた時代。それが今の時代では、楽員だけでなく協力者すべてに気を遣いながらコミュニケーションを十全に図りでないと舞台は成り立たなくなっているのだと。
ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団芸術監督のパーヴォ・ヤルヴィは次のように語る。
「指揮者の奴隷ではなく、皆が演奏に責任を持っている、という感覚を持ってもらうためにも皆に発言の機会を与えることが大切。私はメンバーの一人に過ぎない」、「恐怖には、人は一時的にしか従わない」
大事なことはチーム意識、「自分が」でなく「みんなで」作っているという意識だろう。もちろんひとりひとりが自身の「役割」を自覚し、ベストを尽くすことは前提で。
※「謙虚」であることはコミュニケーションを円滑に進め、チーム意識を育てる上で重要なポイントだと思う。