仕事ができる、要領がよい、コミュニケーション上手・・・、そういう人たちに共通する性質のひとつに「全体観」があります。「木を見て森を見ず」ではなく、「木も森も」両方見ることができるという能力です。これは決して先天的なものではなく、訓練によって体得できるものです。
将棋でいうところの「大局観」。名人は何十手先まで読み、相手を含めた試合の全貌を描きながら手を進めてゆくといいます。つまり、彼の頭の中には空間も時間も超えてすべてが見えているということです。
それと同じことが時間と空間の芸術である音楽にも当てはまります。音楽は厳密にいうと記号化はできません。つまり、人間の目には見えない、あるいは耳では聴くことのできない部分を含んでいるということです。実はこの見えない、聴こえないというところがポイント。「今」という瞬間を常にとらえ、しかも時間とともに流れてゆく音の塊を「思考と感性」、つまり定型とひらめきの両方によってとらえてゆくことが鍵だということなのです。特に、古今東西のクラシック音楽は古いものは何百年という歴史を通して聴き継がれてきているもので、そこには作曲家の叡智が詰め込まれています。作曲家はおそらく思考して音符を書き連ねていません。むしろ、偉大な何かに書かされている、そんな風に僕は思うのです。
たとえば、ワーグナーの14時間にも及ぶ楽劇「ニーベルンクの指環」は数十年という時間と労力をかけ生み出された畢生の大作ですが、このたぐいまれな音楽及び脚本をワーグナーは一人で書き上げています。天才といえばそれまでなのですが、たった一つの言葉では表しきれないすごさ、壮大さがここには刻まれます。凡人には計り知れない才能、天才がここには見られます。一つ明らかなことは、この長大な音楽を生み出すにあたって彼の脳みそにおいては時間も空間も無限に広がっていたのだろうということです。管弦楽を統率するうえで、縦の線(どの旋律をどの楽器の持たせるか、どの楽器で伴奏を担わせるか)を明確に認識すること、そして音楽的流れを損なうことなく名旋律をいかに生み出すか(時間)が瞬時に頭の中にひらめかない限り、ああいう音楽はそもそも創造できないと思うのです。
ワーグナーは人間的には決して尊敬できる人ではなかったといわれます。もちろん人間である以上、欠点はあるでしょう。人一倍エゴイスティックであったであろうこともわからないでもありません。しかし、彼が最晩年に至った「再生論」を知るにつけ、やはり彼が天から選ばれた芸術家のひとりであることがわかるのです。とはいえ、どんなものも言葉にしてしまった時点で「思想」となり、それがそのまま受け入れられることが難しくなります。賛成派もいれば当然反対派も出てくる。しかし、僕はそこにこそ宇宙の真理を見るのです。
たとえば、彼の晩年の論文「宗教と芸術」から一説。
私たちは感覚に欺かれて千変万化する多様性や差異に目を奪われ、生きとし生けるものの一体性を見失っている。・・・婆羅門が私たちに、この生命ある世界に おける多彩を極めた現象を「汝はそれなり!」と意味づけて示した時、私たちの意識が―私たちの周りにいる生物を殺すことは、自らの肉を切り裂き、貪り啖う 所業に等しいのだという意識が喚び覚まされたのだった。
こんな思想をもとにワーグナーの音楽作品が組み立てられているとしたらどうでしょう?
ちなみに、「指環」の「ジークフリート」におけるブリュンヒルデの目覚めのシーンと、「黄昏」におけるジークフリートの死の場面では同じ音楽が使用されます。ここでは、死と覚醒がイコールだということが表わされています。
また、彼の作品のほとんどに通底するテーマは女性の純愛による救済です。
それは、女性が全体観を取り戻し、受け容れと慈しみと愛を解放することが人類の救済と目覚めに直結するということです。
すべてが壮大にしてそこに真実が垣間見られますね。
ところで、ワーグナーは若き日、ベートーヴェンの第9交響曲に感銘を受け、それこそまだ理解され難かったこの作品を世に広めるため尽力しました。
第9交響曲も楽聖と呼ばれるベートーヴェンが30年近い年月を超えて書き上げた大作であり、この音楽こそが21世紀の今、人類がひとつになるためにもっと聴かれるべき音楽の一つではないでしょうか。
わが国では毎年末にいたるところで演奏される風物詩になっていることも見逃せない事実です。現実に第9交響曲を歌うためにアマチュアの合唱団に参加し、実際に何度もステージに立って歌ったことがあるという友人たちも大勢います。
聴覚を失ったベートーヴェンは一体何を見ていたのでしょう。
長大な作品の全体を正しく捉え、音楽の流れから作曲家の思考や感覚を的確にかつ深く理解する機会を享受できるクラシック音楽。古今東西数多のそれらは、まさに「全体観」を養うための大きなツールの一つなのです。