No.005 「幽玄なる田園交響楽」 2007/8/2

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高校生の頃、それこそまだクラシック音楽の世界に足を踏み入れて間もない頃、来る日も来る日も学校が終わるたびに「聴くこと」を楽しみにしていた音楽がある。当時田舎の高校生でクラシックを聴くような友人は極めて稀で、幸運なことに僕にはそういう存在がたった一人だがいた。その彼から貴重な音盤を借り、聴いたのが20世紀を代表する大指揮者との初めての出逢い。

ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

それ以前、「田園」交響曲は誰の演奏で聴いていたのか全く覚えていない。軽快なテンポを持つ所謂一般的な演奏であったことは記憶の片隅にある。僕のような田舎者にとって第6交響曲は宝のような曲で、本当に好きで毎日のように聴いていた。
そこへかのフルトヴェングラーの洗礼を受ける。何と第1楽章の出だしからそのテンポの遅さたるや度肝を抜かれた。通常の1.5倍は遅く感じさせる幽霊でも出るかのような音楽。第2楽章も同様。そして、第3、4楽章を経て終楽章コーダの「祈り」に辿り着く頃にはもうこの音作りでなければならない感覚に襲われていた。まさに「麻薬」なのである。ブルーノ・ワルターの名盤、朝比奈隆の生演奏などこれまで聴いた数多ある名演奏の中でいまだに僕はこの1952年録音の古い音盤に執着する。ベートーヴェンの「田園」を聴くならばフルトヴェングラー。圧倒的である。もはやこれは「標題音楽」でも何ものでもなく「魂」を表現する「純粋音楽」。

実はこの4月に池袋の東京芸術劇場で宇宿允人なる指揮者の演奏会を初めて聴いた。プログラムは全曲ベートーヴェンで、「エグモント」序曲、第2交響曲、そして「田園」交響曲というもの。当然のことながらさほど期待していなかった。しかし、しかし、である。「エグモント」を聴いた瞬間、耳を疑った。そのフルトヴェングラーの演奏が蘇ったかのような錯覚に襲われたのである。休憩後の「田園」に自ずと期待は高まる。
果たしてその「田園」たるや見事なものであった。テンポといいバランスといいまさにフルトヴェングラーを髣髴とさせる「理想」の第6交響曲。第1楽章最後のリタルダンドもそのままフルトヴェングラーの表現とそっくりであった。ただ表面的に似せた演奏がなされたのではなく、その「精神性」までしっかりと引き継がれていたことを付記しておく。宇宿允人のベートーヴェンはぜひとも聴くべし。