No.008 「クラシック音楽のツボ」 2007/9/1

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先日の講座ではチャイコフスキーの第5交響曲をとりあげた。講座中にも紹介したのだが、作曲者自身にとっては初演当初決して納得のゆく楽曲ではなかったらしい。チャイコフスキー自らがパトロンであったフォン・メック未亡人に宛てて書いた手紙には、「あの中には何か嫌なものがあります。大袈裟に飾った色彩があります。人々が本能的に感じるような拵えもの的な不誠実さがあります」という思いが綴られている。

初演当時、一般大衆の反応は概ね好評であったにもかかわらず、批評家からの評価は否定的な意見が多かったということだ。確かに盛り上がるべきところは「わざとらしいくらいに」盛り上がり、いわゆる「仕掛け」がうまく施されており、ドヴォルザークの「新世界」交響曲同様、「裏までわかっていても」感動させる「一流手品師」的な手法の宝庫というべき内容であることは間違いない。例えば、クラシック音楽に興味を持ち始めた入門者にとっては悶絶の「泣く子も黙る」的な構成と楽想を持つ曲なのである。ゆえに、CDで聴くのはもちろんのこと生で聴くとどんなオーケストラでも大抵感動させられてしまうのだ。否、というより興奮してしまうと言ったほうが正しい。

同類として紹介した「新世界」交響曲はもちろんのこと、例えばベートーヴェンの「運命」交響曲など、いわゆる昔からの「クラシック音楽入門者向け」の楽曲に共通する点は一体何なのか?
「古典的交響曲」の模範である4楽章制であること、そして主題が全楽章を通じて緊密に絡み合っていること-つまり統一感をもっていること、さらには「苦悩から解放へ」「暗から明へ」などと表現してもいいのだが、「何か閉じられたものが開かれていく」という人間本来が望んでいる「魂の解放」ともいうべきものがおそらく作曲者の意識とは別に反映されているところが共通項だろうか。音楽は波動である。人間の意思も波動である。これらは「波動」が「魂に直接語りかけてくる」ある意味特別な音楽なのかもしれない。

もう一つ重要なことがある。いずれもがきちっとしたソナタ形式をもって書かれているという点を見逃せない。ソナタ形式とは、2つの主題(ロマン派以降は3つ以上になりより複雑化されるが)を持つ提示部があり、そして各々の主題が展開し、最終的には解決(主題の再現)するという、クラシック音楽のもっともわかりやすい形である。そして、最終着地点、つまり目的地がわかり、全体像が容易に俯瞰できるという点が物質界に住んでいる我々人間に「安心感」を与えるのだろうと推測する。どこにクライマックスがあり、どのように展開するのか見えているから余計に興奮し感動するのである。「古典落語」にしろ、名作といわれる映画にしろ、名著といわれる小説にしろ、仕掛けや落ちが見えていてかつ感動させる、また聴きたいと思わせるものが名人芸だろうし、真の芸術なのである。
こうなると楽曲を再現する指揮者や演奏者側の力量が問われることになるのだが、そういえば宇宿允人氏がコンサート後にいつものようにマイクを片手に聴衆に次のように語りかけていた。
交響楽団のことをフィルハーモニーというが、この「フィルハーモニー」というのは演奏する楽団だけを指すのではなく、今日このホールにおられる皆さんも含めてフィルハーモニーなのだと。
なるほど、やはり指揮者と楽団と聴衆の「三位一体」によるエネルギー=波動がコンサートそのものの是非を分かつのかもしれない。我々聴く側の姿勢もとても重要なのだ。