
メリハリの利いた造形は、チェリビダッケと対極にある。
「恣意的」という点から言えば、両者ともオーケストラに徹底的なリハーサルを要求し、それによって自分がイメージする音楽をいかにも即興風ながら、完璧に演奏させる。
長らくコンセルトヘボウに君臨したヴィレム・メンゲルベルク。
チェリビダッケは「音楽現象楽」的視点から宙に消えて行くような終止形を一貫してとるが、メンゲルベルクの場合は、急発進、急ブレーキなど、とにかく忙しいテンポの変化とポルタメントを多用しての浪漫的な音の流れ、またデュナーミクにおいても突然の爆発的音響など、聴いていて驚くような解釈が頻出する(おそらく戦前は当たり前の解釈だったのだろう)。ゲテモノ扱いするかのように聴く訳ではないのだが、今となっては滅多に聴くことのできない解釈を聴けるので重宝する。
今でも時折僕はメンゲルベルクを聴く。
繰り返し聴いた時期があったので、音楽の解釈については頭の中に入っているつもりだが、それでも(久しぶりに聴けば)予想しないような音響が現われ、そのときにはやっぱり度肝を抜かれる。大したものだと思う。
戦時中のコンセルトヘボウでのライヴ録音。
第7番イ長調は熱い名演奏。
第2楽章アレグレットは、遅いテンポで開始されるが、徐々にテンポを上げ、クレッシェンドしていくという、まるでラヴェルの「ボレロ」を髣髴とさせるような造形。そして、前述のように、ロマン派の濃厚な情緒を醸すためのポルタメントの多用。
あるいは、第1楽章序奏ポコ・ソステヌートにおいては、冒頭の、アインザッツをずらせた強烈な和音の爆発にのけ反るくらい。あるいは、主部ヴィヴァーチェにおいて金管群を強奏させ、圧倒的な迫力と興奮を聴く者に与えるのだ。ちなみに、第7番はリズムが命だが、ティンパニに独自の強烈なアクセントを追加し。「打ち込み」のような鋭い一撃を付加し、リズムの推進力を高めている。
第8番ヘ長調については、個人的にその他の交響曲に比較して「恣意性」はあまり感じない。形式のユニークさと音楽のもつ諧謔性がそのあたりの雰囲気を飲み込んでしまっているのだろうか(もちろん細かく聴いていくと突然のブレーキは頻出し、いかにもメンゲルベルクだとわかる)。
ドイツ国民よ、平時にあっても勇敢であれ。その真価を大切に守り、偽りの外見を捨てよ。本当の自分と異なる姿を見せようとするのでなく、そのかけがえのない本性を肝に銘じるのだ。見た目の美しさは、われらには高嶺の花。それにかわる創造と行為Tichten und Thunにこそ、ドイツ人の高貴な心根は宿る。そして、この輝かしい1870年という年に、勇敢な国民の勝利と並んでわれらの胸をひときわ大きな感動で満たすのは、百年前にドイツ国民のあいだに生を受けた偉大なベートーヴェンへの思いにほかならない。この間にも、わが軍が突き進んでいる、あの「思い上がったモード」の牙城において、早くからベートーヴェンの精神は輝かしい勝利をおさめていた。わが国の思想家や作家の言葉が四苦八苦の翻訳作業の末にようやく、わけのわからぬ音の羅列のように不明瞭にしか伝えられなかった感動を、ベートーヴェンの交響曲はたちまちフランス人の胸の奥底からわき上がらせたのだ。この新たなる宗教、いとも気高く無垢な魂が伝える世界救済の福音は、ドイツに劣らずフランスにおいても、すでに人々の理解するところとなっている。
さあ、荒れ果てた楽園の廃墟に道を開く偉大な先駆者を讃えよう! だが、彼にこそふさわしい威厳をもって、—勇敢なドイツ人たちの勝利への讃歌に遅れをとることなく。世界を征服する者よりも、世界に至福をもたらす者にこそ、栄冠は輝くのだから。
(池上純一訳「ベートーヴェン」(1870))
~ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P192-193
メンゲルベルクのベートーヴェンは第二次大戦中の緊迫した中でのライヴ録音ということもあろうか、どちらかというと「世界を征服せん」とする演奏に聞こえなくもない。「世界に幸福をもたらそう」としたメンゲルベルクにあって、こういう演奏の印象こそが、戦犯の嫌疑をかけられた事由の一つに挙げられるのかもしれない。それも無理のないことだ。

