
オットー・クレンペラーの「浪漫交響曲と序曲」箱は、とても良い出来のものが揃っていると思う。
特に、ベルリオーズの幻想交響曲、フランクの交響曲、そしてドヴォルザークの「新世界」交響曲は2枚に収録されていて、この流れが実に素晴らしく、国も作曲年も違うのに、音楽史の流れと、それぞれの作曲家の思念と挑戦が巧みに表現されていてとても感動的だ。
クレンペラー指揮フィルハーモニア管のベルリオーズ「幻想交響曲」(1963録音)を聴いて思ふ クレンペラーの方法は、すべてを絶対音楽としてとらえ、また絶対音楽として指揮している点だと僕は思う。一切の弛緩がなく、一気に最後まで聴かせる演奏はそうはない。
見通し良く、透明感に長ける「幻想交響曲」。
(巨匠の楽譜を読む力は大変優れたものだと思われる)
1965年の、ラファエル・クーベリックの言葉が的を射る。
それは力と集中の啓示、(・・・)精神的なものへの変容でした。そして、彼がたいへんな苦しみに陥っていた苦難の時期に見せたこの内なる力を通じて、精神は肉体より強いということが、彼のばあいは、ほかのだれよりも示されるのです。
ついこう考えてしまいます。指揮とはいったいなんなのか? 技巧とはなんなのか? 自分たちはなにをやっているのか? これらすべてはなんなのか? なぜ自分たちはあれこれ学ぶのか? もし彼のなかから、つまり指揮者のなかから(・・・)作曲者がメタフィジカルにあらわれてくるかのように、一瞥しただけで全奏者と全曲をひとつにまとめられるのであれば、(・・・)すべては余分なことではないか! この力の変換こそ、わたしの体験のなかでもっとも圧倒的で、もっとも偉大で、もっとも美しいものだったのです。
~エーファ・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P222
世界最高峰の指揮者の一人が「圧倒的で、偉大で、最美だ」というのだから本物だ。
(実演はもっと圧倒的だったのだろうと想像する)
それにしてもクレンペラーの「幻想交響曲」を知らない人はぜひ聴くべきだ。
(これを知らずに死ぬのは一生の不覚)
次なるフランクの交響曲は、フルトヴェングラーのようなデモーニッシュな、情念が炸裂する演奏も素晴らしいのだが、クレンペラーの、即物的でありながら、音楽そのものを十分に鳴らし、共鳴を生まんとする指揮によってこそ本学の本質が容易に読み取れ、同じく「見通しの良さ」に僕は惹かれる。
若きクレンペラーに、セザール・フランク、ガブリエル・フォーレ、ウジェーヌ・イザイ、ヴァンサン・ダンディ、バルトーク・ベーラといった当時の前衛を教えたのもブゾーニである。彼はこれらすべての作曲家の作品を、自ら主宰していたベルリンの《新作演奏会》で弾いたが、評論家たちの受けとめ方はひどく嫌々だった。「ドイツ音楽」が少なすぎるというのがその理由だった。ブゾーニはそんな非難などものともせず、この姿勢を若いクレンペラーにも伝授した。ブゾーニはクレンペラーに、音楽評論家など「浜辺の波のようなもので、それは人を押し倒すこともできるが、ひとたび波が砕けてしまえば、人はまた立ちあがれる」と言ったものである。
そのころのクレンペラーが、たぶんプフィッツナーからよりも多く学んだのはアルトゥア・ニキシュだろう。
~同上書P31
クレンペラーの頑固なまでの芯の強さの秘密はそこにあるのだろう。
だからこそ彼の音楽には、聴く者を大いに感化する力が宿るのである。
そして、ドヴォルザーク!!
この「新世界より」がまた素敵なのだ。
国民楽派というイデオロギー(?)を排除し、あくまでもドイツ的交響曲の形を追究せんとするクレンペラーのこだわり(ただし、第1楽章〈主部アレグロ・モルト〉提示部の繰り返しはなくもがな)。しかも音楽の推進力抜群で、この人口に膾炙した俗曲(?)が、実に新鮮に、優れた感興を伴って耳に届くのだからすごい。
第2楽章ラルゴの静謐で、哀愁に満ちた音楽も純音楽的(余分な郷愁など不要と言わんばかり)。(他の指揮者なら思念を込めるであろう)中間部のあっさりと、何事もないかのように押し進める潔さこそクレンペラーの本懐。
そして第3楽章スケルツォの慌てず騒がず、ゆったりと音楽を踏みしめて進める堂々たる姿勢と(嬉々とした)喜びすらも表わさない冷静な態勢、さらに終楽章アレグロ・コン・フォーコの、冒頭の熱気と、しかし決して熱くなり過ぎない、ただただ音楽を美しく鳴らさんとする堅固な意思。
木管がきこえるということがもっとも重要なのです。普通は金管と弦楽器があまりに大きすぎるので、木管がきこえないのです。わたしはいつも木管に特別の注意をはらってきました。
~ピーター・ヘイワース編/佐藤章訳「クレンペラーとの対話」(白水社)P200
確かに木管がよく聴こえ、美しい。
