
「現世を超越した天空の高みから、聖杯を捧げ持った天使の群れが下降をつづけ、やがて地上へと漂い来たる—人々はその神々しい光景に無上の歓喜をおぼえるが、男(ローエングリン)は聖杯が放つ炎のような光を浴びて気を失う—天使の群れは聖杯を清らかな人々の庇護に委ね、男を聖杯騎士に列して、ふたたび遥かな高みを目指して上昇してゆく・・・」。
~日本ワーグナー協会監修/三宅幸夫/池上純一編訳「ローエングリン」(五柳書院)P5-6
第1幕前奏曲の徹底された美しさの根拠は、それがこの物語の「前史」にあることであり、作曲者自身による「標題的注釈」に記されたとおりだ。
(1962年のバイロイト音楽祭でのそれも物語の先を予見する際立った美しさを誇る)
聖杯降臨の奇蹟に立ち会えるのは決してエリートであるわけではない。
強いて言うなら、過去に相応の修養をし、佛縁ある者のみが遇うことのできる奇蹟なのだと僕は思う。

徹底的に真理を追究しようとしながらも、ついには届かなかったリヒャルト・ワーグナーの無念。彼は、陰陽二気の先に真空なるものがあることはおそらく解ったのだろう。しかし、生まれてくる時代が早過ぎたのだ。
作品全体は、第1幕(昼)—第2幕前半(夜)—同後半(昼)—第3幕前半(夜)—同後半(昼)という具合に昼と夜の舞台を交互に配したシンメトリックな構成。昼の光を浴びて進行する「公的」な国家行事に対して、夜の闇につつまれて繰り広げられるのは「私的」な魂のドラマ。第2幕前半は、どす黒い情念と神話的な力が蠢く「底知れぬ闇」。
~同上書P41
歌劇「ローエングリン」の核たる第2幕の奥深さ。
第1場、フリードリヒとオルトルートの対話のシーン。
私が秘術の奥義をきわめたのも
伊達や酔狂ではない。
だから、私の言うことをよくお聞き。
魔法で強くなった人間はみんな
ほんのちょいとでも身体の一部を切り取れば
たちどころに力を失って
正体をさらすものなのさ。
~同上書P47
オルトルートは黒魔術の権化であり、一方のローエングリンは(同じ呪術であっても)白魔術の使い手。いずれにせよ「身体の一部を失うこと」が最大の弱点であることを彼女は見抜いていた。
世界は対立で成り立つが、それはまた調和の別の姿だ。
ゆえに黒も白も本来は一つであることを忘れてはならない。
第2幕第5場。
ローエングリン
この身は、たとえ相手が一国の王であれ、
至高の議堂に並み居る高位高官であれ、返答を拒めるのだ。
わが業をその目で見た以上、
疑いの思いに胸を悩ませてはならぬ。
私が答えねばならぬのは、ただひとり。
エルザ・・・
~同上書P73
自身の秘密を漏らそうとするローエングリンに対し王や周囲は「姫を苦しめるくらいなら秘密など聞きたくもない」と止める。
エルザは応える。
エルザ
私を救い、幸せをもたらしてくださったお方!
身も心も消え入るほどにお慕いする勇士よ、
疑いの力がどれほど強くとも
私の愛は揺るぎません。
~同上書P79
漲る壮絶なエネルギーはサヴァリッシュの真骨頂!
ところで、第3幕第3場フィナーレの崇高な悲哀は「羽衣伝説」のそれと相似形だが、それは文字通りローエングリンが(ある種の)救世主だからだろうか。当時も今も陰陽二気世界で心を修めんと人々は自分自身と格闘していた。僕たちはどこから来て、そしてどこへ帰るのか?
その答を知るのはローエングリンその人だが、それでも彼は決してエリートではない(身分の上下を超えた創造主の仮の姿だったと言って良いだろう)。

ついにローエングリンが素性を明かす「グラール語り」の感動。
(父はパルツィヴァル、わが名はローエングリン!)
ローエングリン
人の足では行き着けぬ遥かな国に
その名もモンサルヴァートの城がある。
中央に眩しく輝く
地上にまたとない尊い聖堂、
その内に至上の宝として守られている
奇蹟の恵みをもたらす盃は
天使の一群が運び来たり
世にもけがれなき者たちの奉仕にゆだねられている。
年ごとに一羽の鳩が天から舞い降りて
新たな奇蹟の力を盃に注ぎ込む。
盃の名はグラール、それを守護する騎士たちは
ありがたくも、清らかな信仰を分かち与えられる。
グラールに仕えるべく選ばれた者は
この世ならぬ力をその身に授かる—
~同上書P101
ジェス・トーマスの絶唱!!
それに対して周囲は絶望する。
王、男たち、女たち
ああ! なんということか!(Weh! Weh!)
~同上書P103
ローエングリンとエルザは結ばれることはなかった。
(否、離れ離れになることで永遠の結合を得たともいえるか?)
時早し。20世紀を待たずしてリヒャルト・ワーグナーは逝った。

