
国民全体が当たり前のように、何の疑いもなくキリスト教徒になっていた時代。
ゼーレン・キルケゴールが生まれ育った当時のデンマークの社会はそんな様相だったという。(形は違うが、逆の意味で今の日本国の有様とどうちがうのか?)
世界は人が決めたルールや規範によって動いているが、果たしてそれが真理なのかどうなのか? キルケゴールにとっては「私にとっての真理、私がそのために生き、そのために死にたいと思うような理念」が重要だった。しかし、そもそもここで言う「私」とは誰だったのか?
その最初の定義が間違っていたら、何にせよ真理そのものには辿り着かない。
彼は探し求めた。しかし、見つからなかった。
キルケゴールの「ドン・ジョヴァンニ論」には、モーツァルトの歌劇に登場する3つのキャラクターに即して、人間が自我に目覚めていく過程が論じられている。しかし、いくら面白く読もうとも、そもそも最初の立ち位置が狂っているのだから、正しい「ドン・ジョヴァンニ論」には至っていない、僕はそう思う。
自我に向かうか?
それとも真我に向かうか?
「ドン・ジョヴァンニ論」は、あくまでこの「意識」を超えない、小さな、狭い器の中で論じられているものに過ぎない(僕の独断と偏見だが)。
キルケゴール曰く、第一段階は、「フィガロの結婚」の小姓ケルビーノに暗示されているそうだ。
感性的なものがめざめる。しかし運動へではなく、静かな休止へであり、喜びと歓楽へではなく、深い憂鬱へである。欲念はまだめざめてはいず、憂愁に予感されている。
~ゼーレン・キルケゴール/浅井真男訳「ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて」(白水ブックス)P62
なるほど、ここを起点とするならば、キルケゴールの言う発展は後退に過ぎない。
ちなみに、第二段階は、「魔笛」の鳥刺しパパゲーノに暗示される。人が真我から離れ、個性というものに取り巻かれ、いつのまにか佛性を忘れ去って行く悲哀。
欲念がめざめる。そして人が夢みたということに、本来はつねに目覚めの瞬間にはじめて気づくのと同様に、ここでも夢は過ぎ去っているのである。欲念をめざませるこの覚醒、この震撼は欲念と対象とを分離させ、欲念に対象を与える。これは明確に記憶されなくてはならない弁証法的規定であって、対象があることによってはじめて欲念があり、欲念があることによってはじめて対象があるのである。欲念と対象とは双生児であって、どちらも他より一瞬間の何分の一でも先に世に出るのではない。
~同上書P71
さらに、キルケゴールは第三段階をドン・ジョヴァンニによって示し、人間が人間として完全に勝利して無限に反復されるのだというのである(これはもはや堕落状態なのだが)。
第三段階は両者の統一である。欲念は個別者のなかに絶対的な対象をもち、個別者を絶対的に欲する。この点に誘惑的なものがあるが、これについては後に語るであろう。それゆえ欲念はこの段階においては絶対的に健全であり、必勝であり、勝ち誇るものであり、不可抗であり、デモーニッシュである。だからわれわれが当然見落としてはならないのは、ここで問題になるのは個別的な一個人のなかの欲念ではなく、精神によって排除されるものとして精神的に規定された、原理としての欲念ということである。これこそは、私がまえにも示唆したような感性的天才性の理念である。この理念の表現は『ドン・ジョヴァンニ』であり、さらに『ドン・ジョヴァンニ』の表現はただひとつ音楽だけである。
~同上書P81
実存主義の盲点は、この意識を真としたところだろうと思う。
しかし、当時はそれが「常識」だった。
それゆえに是非を問うのではなく、「ドン・ジョヴァンニ論」として実に興味深いものだとする認識が重要だ。
枯淡のカール・ベームが、渾身の力で棒を振り切った、ザルツブルク音楽祭ライヴ。
キルケゴールのいう「デーモン」の如しの「ドン・ジョヴァンニ」という点で最右翼ともいえる、老練の凄味。世間一般では、第2幕の「地獄堕ち」のシーンの壮絶さが絶賛されるが、このオペラのクライマックスであるこの場面が(逆の意味で)確かに素晴らしいことに間違いはない。(まったくデモーニッシュではなく、ミルンズの頭脳的な歌唱に「気枯れ」を僕は感じるのだ(第2幕01:12:10)。
しかしながら、音楽の凝縮力という点ではプラハ国立劇場管との1967年の録音を僕は推す。(何より珍しくもフィッシャー=ディースカウのドン・ジョヴァンニ、そしてニルソンのドンナ・アンナが聴けるのだから)
「枯れる」というのは、ある意味もとに戻っていくということだろう。
ベーム晩年の「ドン・ジョヴァンニ」が賛否両論、あるいは決して評価が高くないのは、キルケゴールの言う「エロス」的要素が抜けてしまっているからではないのか。
ただし、それこそが本来のモーツァルトの意志だったとするならどうだろう?
晩年のモーツァルトが「魔笛」で悟りに至ろうとする過程にある「ドン・ジョヴァンニ」の役割は、「エロス」を借りて、「エロス」から脱却することではなかったか。
ちなみに、音楽評論家の増田良介さんが次のように書いているが、この事実が実に興味深い。
ベームがモーツァルトに開眼したのはブルーノ・ワルターのおかげだった。そして、モーツァルトへの愛をさらに強め、深めてくれたのがシュトラウスだったという。いつも冷静なシュトラウスだったが、モーツァルトについて語るときだけは熱烈だった。《ドン・ジョヴァンニ》の第1幕、仮面を被ったドン・オッターヴィオ、ドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラをレポレッロが招き入れ、三重唱が始まるまでのアダージョの2小節、これが作曲できたなら自分のオペラ3篇を差し出してもいい、というシュトラウスの言葉を、ベームは伝えている。
「指揮者カール・ベームと作曲家R.シュトラウスが育んだ強い友情」
これは、レポレッロが3人に「Zì, zì, signore maschere」(さあ、仮面の皆さん、お入りなさい)と呼びかけ、3人が歌う三重唱「Protegga il giusto cielo」(正義の天よ、守りたまえ)に入る前の、祈りを捧げる直前の、場面の空気が変わる部分のことだろうと思われるが(1:22:35~あたり)、この絶妙な短い音楽を、ベームは丁寧に音化する(モーツァルトの自然体)。
