チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル ベートーヴェン 交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1987.4.12&13Live)

チェリビダッケは確かに指揮者としての、そして音楽家、芸術家としてのフルトヴェングラーを心から尊敬していたが、人間としてのフルトヴェングラーに対する愛情にはやや欠けるところがあった。「彼は性格的にとても移り気でした。他の人間にも能力があるということには耐えられなかったようです。しかし自我妄想はありませんでした」。チェリビダッケによると、年長指揮者は人前で彼を「ラクダ御者」と呼んだという。つまり、バルカンから来た異国人の成り上がり者、ベルリンにおいてフィルハーモニーの群れで一夜のうちに名声を手にした男というところか。
~クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P110

チェリビダッケは、フルトヴェングラーとの往復書簡を決して公開させようとしなかった。それは、フルトヴェングラーの世間一般のイメージを崩さないようにという後輩なりの配慮からだったらしい。

言葉で表現するのがとても難しいのだが、チェリビダッケが晩年に演奏したベートーヴェンは、少なくとも録音を聴く限りにおいて、音響面で、フルトヴェングラーの晩年のEMIへのセッション録音の趣きに似ているように僕は感じる。中でも、1952年11月の「英雄」。
大病後、初の録音はそれまでのフルトヴェングラーとは違い、客観的で、大人しくも堂々たる様相を示し、今もってベートーヴェンの交響曲の推薦盤として名高いが、その抑制された響きは、ライヴ録音で聴く巨匠の演奏と正反対で、多少物足りなさを感じる人も多いのではないだろうか。

チェリビダッケが意識したのはこのセッション録音ではなかったか。
ただし、僕はチェリビダッケの実演に触れていない。
だから真相は全く不明だけれど、音の響きの肌触りが不思議にそっくりなのである。
各楽章や曲全体の終止で見せる、あの独特の「消え入るような、あるいは空間に音が溶けていくような終わり方」は、彼の音楽哲学の核心を表しているそうだ。
それは、チェリビダッケが説いた「音を空間に還す」というフェノメノロジー(現象学)に起因する。

チェリビダッケは音楽現象学を信奉し、「音は空間の響きと一体であり、最後は空間に溶けて消えるべきだ」と考えていた。だからこそ、一般的な指揮者のように最後の和音でバシッと空間を切り裂くような硬い音(いわゆる「縦の線を合わせるだけのブツ切り」)を極嫌した。彼にとっての終止は、音が物理的に止まるのではなく、響きがホールの残響を伴って自然に減衰し、静寂へと還っていくプロセスだったのである。これは、楽譜上の指示でいう モレンド(morendo:消えゆくように) の極致と言える。

フルトヴェングラーとチェリビダッケ。
アプローチや指揮のスタイルは一見対極(チェリビダッケは緻密・構築的、一方のフルトヴェングラーは有機的・即興的)に見えるが、「音の終わり方」や「響きの肌触り」において、二人の間には驚くほど深い共通の精神が流れているように思われる(もちろんそれはチェリビダッケがフルトヴェングラーに師事し、敬愛していたことも理由にあろう)。

フルトヴェングラーの音響との間に近さを感じさせる理由は何だろう。

  1. 「アタック(打点)」を曖昧にし、響きを「融合」させる方法
    フルトヴェングラーもチェリビダッケ同様、縦の線を機械的にバシッと揃える演奏を嫌った。彼の指揮は「いつ音を出せばいいのか分からない」と言われるほど曖昧な予備動作で知られるが、それによってオーケストラの音が少しずつズレて重なり合い、「角のない、ふくよかで柔らかい音響」が生まれたのである。
    この、音の出だしが「ふわっ」と始まるからこそ、音が終わる瞬間もまた棘がなく、まるで体温を感じるような「肌触りの近さ」となって耳に届くのだ。
  2. 「生きた有機体」としての残響の扱い
    フルトヴェングラーにとって、音楽は「今、この瞬間に生成されるもの」だった。彼が鳴らすベートーヴェンの終止和音は、単に楽譜に書かれたフェルマータの長さを消化しているのではなく、ホール全体の空気を震わせ、その残響が静寂へとグラデーションのように消えていくプロセスそのものだった。
    中でも、晩年のスタジオ録音の交響曲第3番「英雄」(1952年)の第2楽章「葬送行進曲」のピツィカートによる消え入るような終止は、まさに音が空間に吸い込まれていくようで、チェリビダッケが目指した「音が空間に還る」現象と完全に共鳴している。
  3. モノラル・初期ステレオ録音の「音の密度」が生む親密さ
    1950年代前半(フルトヴェングラーの晩年)の録音は、現代のデジタル録音のように高音がクリアにセパレートされているわけではない。むしろ、中低音成分がずっしりと塊のように凝縮された、少し「温かみのある、こもった音」をしているといえる。
    このオーケストラ全体がひとつの巨大な生き物のようにドロリと一体化して鳴る音響特性が、聴き手に対して物理的な距離を縮め、まるですぐ目の前で巨大な呼吸を浴びているかのような「肌触りの近さ」を感じさせる大きな要因になっているのかもしれない。

・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1987.4.12&13Live)

チェリビダッケの、意識的な音の抑制は、まるでスタジオでのセッション録音のようにも聴こえるが、歴としたライヴ収録であり、オーケストラのコントロールぶりが神がかっている。

チェリビダッケは若い頃、ベルリン・フィルでフルトヴェングラーの代役や共同指揮者を務め、巨匠の音楽を間近で体験していた。チェリビダッケが晩年に到達した「テンポを極限まで遅くし、倍音を完璧にブレンドさせて空間に溶かす」という境地は、若き日に聴いたフルトヴェングラーの「あの有機的で、空間を満たす分厚く温かい響き」を、現象学という彼なりの方法論で再現しようとした結果だったのかもしれない。
そう考えると、フルトヴェングラーの晩年の録音にチェリビダッケと共通する「ふわっとした、終止の肌触り」を感じられるのは、20世紀の演奏史の幸福な伏線回収のようにも思えてならない。

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