クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管 マーラー 交響曲第9番(1967.2録音)

寝ても覚めてもマーラーの第9番を欲していた時期が過去にはあったが、今となってはどうしてそうだったのか思い出せないくらい。正直、最近はこの作品がなぜ愛好され、人気があるのかわからないほど。つまらない音楽だとさえ思う。

マーラーは自作を繰り返し演奏し、そのたびに筆入れし、作品をブラッシュアップしていった。彼が一流の指揮者であったことがまたそれを容易に可能にしたのだが、時間を経て内容は大いに変貌した。しかしながら、第9番に関しては推敲するための大事な時間を死が奪っていった。それゆえに、スコアには通常ある細かい指定や指示がほとんどない。指揮者の解釈に任されているのだと言えばそれまでなのだが、やはりこの交響曲は残念ながら作品として発展途上にあるのだろうと僕は思う(極論すれば未完だとも言えまいか)。

たぶん特別な指揮者が振ったときの、しかも実演に触れたときにのみこの交響曲は力量を発揮するのではないか。

グスタフ・マーラーの「自由さ」を表わすであろうエピソード(当時の楽員や娘アンナの証言より)。

—柔軟性、それはマーラーがもっていたものです。テンポ、フレージングなどには一種の自由さがなければならなかったのです。
—テンポの変化は大きかったのですか。
—いや、わずかな変化です。自由であることと、陶酔してしまうこととは違いますから。
—2小節として同じテンポではいられない、とも言われました。
—それでも、それは大きな流れの中での揺れにすぎず、テンポは保たれていました。

金子建志著「こだわり派のための名曲徹底分析 マーラーの交響曲・2」(音楽之友社)P6

あるいは、グスタフ・マーラーの「気まぐれ」を表わすエピソード(同じく楽員や娘アンナによる)。

—ある優秀なクラリネット奏者がおり、マーラーも彼の演奏をいつも気にかけていました。ある時マーラーが彼に「音を小さく、小さく」と注意したことがあったのですが、それは前日「音が小さすぎる」といった所だったのです。マーラーは声高に言いました。「それは雰囲気しだいなのです。すべては雰囲気です。昨日は大きすぎると思った音が、今日は小さすぎるように感じることもあるのです」と言いました。こういうところがマーラーの人間くさいところです。
~同上書P6-7

創造性というものが、臨機応変のものであり、変化の中に追随してゆくものだということがよくわかる。だからこそ、彼が手を入れられなかった交響曲第9番においては、納得の行く演奏、録音になかなか出会えないのだと思う(少なくとも僕の場合は)。

・マーラー:交響曲第9番ニ長調
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1967.2.15-24録音)

クレンペラーはマーラーの第9番を愛した。晩年の彼の演奏は、いずれも愚鈍というより生き生きとした表情を見せ、音楽は終始躍動する。第1楽章アンダンテ・コモドはもちろん素晴らしいのだが、白眉は多少テンポが速めの終楽章アダージョだろう。どの瞬間も丁寧に音を鳴らし、そしてまた葬送の音楽であるかのように湿っぽく、静けさに満ちるのである(時に地鳴りのように五臓六腑に響く音調がまた素晴らしい)。

クレンペラー幼少時のエピソード。

クレンペラーはマーラーの指揮姿をコンサート・ホールで見たことはなかったし、あれがグスタフ・マーラーだと教えてくれる者もいなかた。だが母がマーラーについて語っていたことから判ずるに、この人以外にはありえなかった。「10分間ほど恐る恐る彼のあとをつけ、あの人を大海の驚異の生き物のごとく見つめたものです」と後年、クレンペラーはマーラー妻アルマに書き送っている。
E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P17

クレンペラーの、マーラーへのただならぬ思いが描かれる。
願わくば、クレンペラーのマーラーを、実演で聴きたかった。

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