フルトヴェングラーの「ワルキューレ」を聴いて思ふ

楽劇「ワルキューレ」はとても人間的で官能的なオペラだ。例えば、ハンス・クナッパーツブッシュのあまりに巨大で異界を想像させるような第1幕や「魔の炎の音楽」を愛聴してきた耳には、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの最後の録音となったEMI録音の、あまりに枯れて静謐な音楽はどうも違和感があった。だからフルトヴェングラー・フリークの僕でも長い間お蔵入りだったし、近頃だってほとんど真面に聴いたことはなかった。しかしながら、ここのところの「ワーグナーを聴け」というインスピレーションによりそれこそ虚心坦懐にじっくりと傾聴した。

さすがに死の2ヶ月前の録音である。もちろん本人は2ヶ月後に命がないものとは思っていなかったろう。とはいえここには一種「悟りの境地」に足を踏み入れたかのような潔さと、悪く言えば脂の抜け切った、しかしよく言えば聖なる崇高な世界が広がるのだ。もはや人間的ドラマを超越する、あの世とこの世が錯綜する、そんな世界を描き出すのである。なるほど、さすればこれは「能」の世界に極めて近い。随分長い間わからなかったはずだ・・・。

「ワルキューレ」にも、それこそ何度も繰り返すワーグナー晩年の「再生論」の源を僕は見出す。そして、そのことを教えてくれるのがこのフルトヴェングラー盤なのだ。そもそも「ニーベルンクの指環」というのは、単なる空想の神々の没落を謳った物語などではない。実に現代資本主義文明に警鐘を鳴らしつつ、各々の「つながり」の必然性を訴える啓示なのである。ジークムントとジークリンデの出逢いに始まり、ヴォータンとブリュンヒルデの別れに終わるこのストーリーは、いかにも現世的な逢瀬と告別をなぞるようだが、しかしそこには魂によってつなぎとめられた、いかんともし難い必然が明示される(それはその後のストーリーを知ることによって明確になる)。

ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」
マルタ・メードル(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
レオニー・リザネク(ジークリンデ、ソプラノ)
フェルディナント・フランツ(ヴォータン、バリトン)
ルートヴィヒ・ズートハウス(ジークムント、テノール)
マルガレーテ・クローゼ(フリッカ、メゾ・ソプラノ)
ゴットロープ・フリック(フンディング、バス)ほか
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.9.28-10.6録音)

当時のフルトヴェングラーの精神状態というのは一般的な観点でいう「普通でなかった」のか?音楽にうねりもなければどこか集中力を欠いた散漫さが感じられる。そのことがこの音盤の評価を長い間左右したが、しかし、そもそもこの音楽がそういうものを求めているのではないのか?
冒頭の「嵐」にせよ、疾風怒涛でない。極めて大人しい、異常に客観的な音楽が奏される。ジークムントもジークリンデも、そしてフンディングもまるで余所行きのような落ち着いた歌唱。そう、このドラマにあまりに人間的な、官能的な愛はいらぬ。
人類再生の狼煙があげられる、あくまでエゴを排したフルトヴェングラーの最晩年の孤高の解釈こそが相応しいのでは?(歌手の人選も見事に個性派を退け、良くも悪くも中庸であることが的を射る)

それと、終幕の「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」。僕の中ではクナッパーツブッシュがウィーン・フィルと録音したレコードが随一のもので、あれを超えるものは未だにないと確信しているが、対極の解釈としてこのフルトヴェングラーの演奏を推す。クナのそれがヴォータンの父親としての厳しさ(もちろん愛ある)に焦点を当てたものであるのに対し、フルトヴェングラーのそれは哀惜と無念に焦点を当てる。

 


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