「許すことは、苦しい。君のその目を見ることも、このやせ細った手をさわることも、苦しい」と、彼は答えました。「もう一度、接吻させておくれ。ただ、その目は見せないでおくれ。ぼくは、君がぼくに対してしたことを許す。ぼくは、ぼくを殺すものを愛する。—だが、君を殺すものを、どうして、愛せるものか!」
彼らは、黙りこみました—たがいに顔をうずめ合わせるようにして、たがいの涙に、顔をぬらしました。しまいには、二人ともさめざめと泣いたようでした。ヒースクリフでさえも、こんなぎりぎりのときには、泣くこともできるものだと思われました。
~エミリ・ブロンテ/阿部知二訳「嵐が丘(上)」(岩波文庫)P264
かつて自己犠牲とは美しいものだったのだろう。
しかし、今は違う。何にせよ比較は元凶。そして、自他の区別こそが比較の思念を生む源だ。
音楽は実際のことろ平等だ。誰のどんな演奏も実際には素晴らしい。受け手が、聴き手がどう感じるか? それがすべて。
1952年9月、アルトゥーロ・トスカニーニはロンドンに渡り、フィルハーモニア管弦楽団とブラームスの交響曲全曲を演奏した。すべてが熱のこもった、空前絶後の名演奏であり、初めて耳にしたとき、僕はそれまでトスカニーニの音楽を誤解していたことを悟った。
同年2月の、カーネギーホールでの手兵NBC響とのブラームスも分厚い、直線的な素晴らしい演奏だ。
交響曲第2番はもちろんのこと、颯爽たるハイドン変奏曲の美しさ。音楽は高らかに奏され、同時に地に足の着いた、重心の低いものであり、脳天をつんざくような音響によって僕たちは心奪われる(13の変奏を経てのフィナーレの興奮よ)。
ちなみに、悲劇的序曲は翌年の放送録音(NBC放送)。最晩年のトスカニーニの心身共の充実感が伝わってくる推進力抜群の演奏に快哉を叫ぶ。