男は誰しもじゃじゃ馬好きなのである

beethoven_9_schuricht_1961.jpg特に50代以降の夫婦は結構な割合でそれまでの夫婦生活で離婚を考えたことがあるという。そう考える夫婦の4割くらいが「性格の不一致」という理由を挙げている(昨日たまたまつけたテレビでやっていたのだが、具体的な数字は忘れてしまった)。

生まれ育った環境も違い、経験も違う二人なわけだから「性格が違う」のは当然である。たとえ、10%や20%でも共有し、共感できる何かがあるならそれは飛び切り幸せな夫婦だといえるだろう。そもそも男と女というものが異星人同士なのだから、僕に言わせれば、分かり合おうとすること自体がちゃんちゃらおかしい。では、うまくいっている夫婦はどうしてうまくいくのか?結局、違いを認めながら、相手に決して依存することなく各々が「ピン」で生き(つまり精神的に自立しているということ)、その前提で助け合っているという実態が浮かび上がる。お互いいなくなっては困る相手なのだが、必要以上にお互いに干渉しないということが基本のようだ。なるほど。

「大指揮者カール・シューリヒト~生涯と芸術」ミシェル・シェヴィ著(アルファベータ)を読んでいて、シューリヒトが何度も離婚を繰り返した末、ついに生涯の伴侶となる妻マルタと出会い、幸せな結婚生活を送るとともに、彼女の存在があっての「巨匠」であり、それがまた「かの不滅の芸術」を産む動機になっているのだということが大いに理解でき、男にとっての女性の存在、あるいは夫婦のあり方というものについて考えさせられた。

マルタと出会うまでのカール・シューリヒトの人生では、確かに音楽にかかわるという喜びはあった。とはいえ、知性、芸術、感情、そして社会的な方面でのさまざまな希望を、きちんとしたバランスを保ちながら叶えることができない、ばらばらな人生の喜びだった。・・・三度目にシューリヒトが離婚した時、古い友人で作曲家にして批評家のスイス人で、自称アンチ・フェミニストのロベール・オブシエは、裁判所から出て来る彼にこう問いかけたという。「ねえマエストロ、こう何度も不釣合いな女性を、君が誤って選んでしまうのはなぜなんだろうね。」
最後の妻となるマルタ・バンツは、1943年に彼と結婚した当時、良家の若い娘として育てられていた。・・・マルタは突然に、ほんの一瞬ともいえるうちに、この男の並外れたスケールを認識し、たちまち敬愛するようになった。しかし彼女は尊敬する男にひざまずく普通の女性のように、従順でも浮かれてもいなかった。彼女は聡明で客観的な視点や率直な物言いを失うようなことはなかった。それまでちやほやと先生扱いされていたカールは、この妻と一緒に暮し始めた頃、彼女の考え方や自由な流儀にしばしば面食らった。しかし彼はすぐにこの素質を理解し、素晴らしいと感じるようになった。彼女は夫と同じように夢の翼で羽ばたくことができたが、その凧の糸をしっかりと手に掴み、大地に足を着けていたのはいつも彼女だった。

要は男は誰しもじゃじゃ馬好きなのである。それも単なる自己中心的なじゃじゃ馬のことをいうのではない。それこそ「意識が他を向き、揺るぎない自分軸をもった」自律的な女性が男を奮い立たせるのである(笑)。

カール・シューリヒトの類稀なる芸術の恩恵に浴することができるのは、妻マルタの存在があってこそということがよくわかった。要するに「あげまん」といわれる女性の支えがあっての男である。やっぱり男は弱く、そして、女は強い。

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」
マリア・シュターダー(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
マレイ・ディッキー(テノール)
オットー・ヴィーナー(バス)
シュトゥットガルト合唱協会、シュトゥットガルト・バッハ合唱団、シュトゥットガルト放送声楽アンサンブル
カール・シューリヒト指揮シュトゥットガルト放送交響楽団(1961.9.13Live)

夏の蒸し暑い盛りにベートーヴェンの第9でもなかろうが、シューリヒトの記念碑的なライブ演奏をどうしても聴きたくなり、ついつい取り出してしまった。マーラーの「復活」か第3かとも悩んだが、あえてここは喜びの歌、人類賛歌である。それにしてもカール・シューリヒトの演奏は何もしないかのようにそっけなく流れる中に、熱い血潮が滾る。あまり評判は良くない音盤だが、曇った録音の奥底からシューリヒトの魂の叫びが聴こえてくる。マルタの支えあってのシューリヒト芸術!


16 Comments

雅之

おはようございます。
>要するに「あげまん」といわれる女性の支えがあっての男である。
では、一生独男だった、ベートーヴェンの立場はどうなるのでしょうか?(笑)
それにしても、男女や夫婦や家族のことは、本当のところは当事者しかわかりませんよね。後世の人が、岡本さんや私の伝記を書いたところで、絶対岡本さんや私のプライベートの全貌は把握出来っこないのですから(笑)。
マイケル・ジャクソンが優しく素晴らしい父親だったということを、最近テレビのニュースで彼の娘の言葉を聞き初めて知りましたが、それだって当事者しか本当の真実は知らないことでしょうし、他人に言いたくない、知られたくない、秘められた部分は他に多いはずですし・・・。他人の人生を語ることは難しいとつくづく思います。
それに、こちらが幸せでいいなあと羨ましがっても、本人はちっともそう感じていなかったり、逆に可哀そうだと同情しても、本人は幸せそのものだと思っていたり、人の幸福とはその人の価値観だけの問題のような気がします。そう、芸術に対する価値観と一緒。
私がマイケル・ジャクソンの人生は悲惨だったといったら、彼はこう返すでしょう。「才能のない一般人の君には言われたくないよ(笑)、すくなくとも君の平凡極まりない人生より、何万倍も幸せだったよ!」
「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ 人生や芸術に対する価値観もいろいろ」・・・ 小泉純一郎・・・違うか(爆)。
それと余談ですが、ブラームスやラヴェルは、自分のプライベートについての、「後世への証拠隠滅」の天才だったと私はみています。
ご紹介の「第九」は未聴です。シューリヒトの録音は全部聴いてみたいです。

返信する
岡本 浩和

>では、一生独男だった、ベートーヴェンの立場はどうなるのでしょうか?
そうですね・・・。ベートーヴェンもラヴェルも結婚しなかったというだけで、そういう女性(あるいは男性?)の支えはあったと思います。ラヴェルの場合は、その女性というのが母親だったかもしれませんし。
ただ、ご指摘の通り、恋愛などプラーベートに関しては他人には絶対わからない部分もありますから、あくまで勝手な推測の域は出ませんけど・・・。
>人の幸福とはその人の価値観だけの問題のような気がします。そう、芸術に対する価値観と一緒。
なにを基準にするかによって違いますからね。おっしゃるとおりです。
>それと余談ですが、ブラームスやラヴェルは、自分のプライベートについての、「後世への証拠隠滅」の天才だったと私はみています。
確かに!ブラームスはそれでも微妙に証拠的なものが残ってますが、ラヴェルには恋愛の事実がまったくないというのは実際のところどうなんでしょうか?やっぱり「証拠隠滅」なんですかね?

返信する
近藤え

こんにちは♪
男は誰しもじゃじゃ馬好きですか~?!
興味そそられ、読み入ってしまいました・・・・
お互いピンで生きて行ける夫婦、理想です。
が、私自身まだまだ弱いんだな・・・・
振り回されるのが怖いから、誰も近づけたくない。
でも恋人は欲しい。
矛盾だらけのロマンティストになってる私~。
じゃじゃ馬になれたら良い男にも素晴らしい芸術家にも生長するかしら~?!
成功してる女流画家も確かにじゃじゃ馬ばかり!
 

返信する
岡本 浩和

>近藤えちゃん
そう、じゃじゃ馬好きだと思う。
でもね、大事なのはほんとのじゃじゃ馬は自分のことしか考えない人じゃないのよ。自己責任で生きていて、かつ根底には「愛」がある女性のことをいうのね。いかにも自分中心のように見えるんだけど、決して自分勝手じゃないんだ。
そう、相手に依存するんじゃなく、自立し、人を愛せるということが大前提!
「振り回される」と思うのは依存してるから。
芸術家として、そして女として自立してくだされ。
大丈夫、なれるから!(笑)

返信する
近藤え

岡本さんのコメントに納得です~。
昔からの癖で知らないうちに依存している事にも心地よさを感じてしまっていたのですね・・・・・最近気付きました。
自立し、人を愛せる女流画家目指して進んで行きます♪

返信する
ルミ

岡ちゃん、お久しぶり!!いつもブログ見てます。
この記事、面白くって読みながら思わず笑みがこぼれた。じゃじゃ馬好きかぁ、参考にしよう!!
女性がじゃじゃ馬でいられるのは、男性がそれをしっかりと受け止めてくれるからでもあり、相互の程よい関係性も重要なんでしょうね。
私も、そろそろ落ち着きたい。。。。(笑)
次なるステージです★

返信する
岡本 浩和

>近藤さん
>自立し、人を愛せる女流画家目指して進んで行きます♪
よーし、がんばれ!応援してます。

返信する
岡本 浩和

>ルミ
久しぶりね。
>女性がじゃじゃ馬でいられるのは、男性がそれをしっかりと受け止めてくれるからでもあり、相互の程よい関係性も重要なんでしょうね。
そうそう。自立して、かつ人に想いをもてる女になってくれたまえ。だいぶ準備は整ってきただろうからそろそろ彼氏ができるでしょう!(笑)

返信する

>でもね、大事なのはほんとのじゃじゃ馬は自分のことしか考えない人じゃないのよ。自己責任で生きていて、かつ根底には「愛」がある女性のことをいうのね。
私もじゃじゃ馬が大好きなのですが、岡本先生の仰る通り、本物のじゃじゃ馬にはじゃじゃ馬なりの「明確な意思」があるはずですね。ただ単に右往左往している馬は、じゃじゃ馬ではなく、駄馬ですね。

返信する
岡本 浩和

>茂様
コメントありがとうございます。
そうなんです。本物のじゃじゃ馬は自立してますから。
依存していない分、愛情も深いのです。

返信する
kisara

岡ちゃん
素敵な題名ですね。じゃじゃ馬か・・・にゃにゃ猫っていうのはないんでしょうかね。
馬は人類の歴史をみると必要不可欠な移動手段でしたね。
ですから人と馬は切っても切れないくらいの関係であり、馬は特に足をまたがるため男性視点でみた男性にとって大事な動物だったのではないかと想像します。
ここがポイント。男性の視点ですね。
ふと・・あの彼とはやっぱり馬が合わなかったと思うことが多くて、人間の感情や関係性を語る上で馬ということわざがでてくるのがとても興味深いのです。
女性は男性にとってみればじゃじゃ馬かもしれませんが、女性は自分のことをじゃじゃ馬だとは思わず猫っぽいと思う人の方が多いかもしれませんね。
私はまだ中途半端なじゃじゃ馬ちゃんでした(笑)
意思をもってそうでもっていない、ただ鍛えれば競馬会で勝てるような要素はもっているんだと毎日信じて頑張っています。

返信する
岡本 浩和

>kisaraさん
にゃにゃ猫ね、それは上手い表現だ!
>ここがポイント。男性の視点ですね。
うーん、おっしゃるとおり。お見事!
>あの彼とはやっぱり馬が合わなかったと思うことが多くて、人間の感情や関係性を語る上で馬ということわざがでてくるのがとても興味深いのです。
都度僕が言うように「関係性」なんだよね。つまりは「馬が合うか合わないか」。人間の関係はそれが全てでしょう。
>意思をもってそうでもっていない、ただ鍛えれば競馬会で勝てるような要素はもっているんだと毎日信じて頑張っています。
よし、がんばれ!

返信する
佐々木

岡本先生
「関係性」ってそういうことなんですか?
「馬が合わない」というのは、人間関係で問題が生じたときに、「自分を振り返らない口実」になるおそれがあると思います。「馬が合わなかった」と言うのは簡単ですが、それだけで済ませてしまっては、お粗末のようにも思えます。継続性・重要性のない人間関係の場合には「馬が合わない」で済ませてしまってもよいとは思いますが、継続的かつ重要な人間関係において問題が生じた時は、「自分を振り返る」必要があるのではないでしょうか。

返信する
ラマ

「関係性」ってそういうことなんですか?
「馬が合わない」というのは、人間関係で問題が生じたときに、「自分を振り返らない口実」になるおそれがあると思います。「馬が合わなかった」と言うのは簡単ですが、それだけで済ませてしまっては、お粗末のようにも思えます。継続性・重要性のない人間関係の場合には「馬が合わない」で済ませてしまってもよいとは思いますが、継続的かつ重要な人間関係において問題が生じた時は、「自分を振り返る」必要があるのではないでしょうか。

返信する
岡本 浩和

>佐々木様
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおりです。「馬が合わない」からと言って「自分を振り返らなくて良い」ということではないと思います。同じ事を繰り返さないよう、反省することがあらたな「人間関係」を築いてくれるのだと思うのです。
ただ、最近僕は本当に思うのです。人間は一人一人違うのだと。「馬が合わない」という事実も認めなきゃいけないなと。
誰の言葉か失念しましたが、次のような内容の言葉があります。
「あなたはあなた、私は私。そんな二人が少しでも共感し、交わることができるとするならそれは素晴らしいことである。でも、仮にそうでなかったとしても、それは仕方がないことである。」
他者を承認するために自分を省みること、それはとても大切なことですね。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください