
気持良いくらい明朗快活、颯爽としたヨハネス・ブラームス。
官能にたいする嫌悪と憎しみが、純潔と節度ある平和への激しい欲望が襲ってきた。とはいえその一方では、彼は芸術の空気を、生暖かくて甘美な、香料入りの常春の空気を吸っていた。そこでは人知れぬ創造の歓楽のうちに一切が煮えたぎり、うごめき芽生えていたのである。つまるところ彼は、あてどもなく激しい極端から極端へ、冷厳な知性と身を灼く官能の劫火とのあいだを行きつ戻りつしながら、数々の良心の呵責のもとに、われとわが身を蝕むような生活を、道ならぬ放埓な異常な生活を続けて行くよりほかはなかった。そして彼トニオ・クレーゲルは、心の底でこういう生活におぞけをふるっていたのである。なんたる彷徨、と彼は時おり考えた。自分ともあろうものが、一体なぜこんな途方もない冒険の中にはまり込んで行くのだろうか。己はもともと決して緑色の車に乗ったジプシーなんかではないのだ。・・・
~トーマス・マン/高橋義孝訳「トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す」(新潮文庫)P41-42
人は誰しも得てして矛盾の中に生きるものだが、ヨハネス・ブラームスという男も大概そういう側面を持った人だった。「憂鬱で思索的な一面」、そして「優美で感性的な一面」、トニオ・クレーゲル同様、その葛藤の中で生きた。
両面が見事にバランスされた傑作、それがピアノ協奏曲第2番変ロ長調だと僕は思う。
しかし健康がそこなわれて行くのに反比例して、彼の芸術精神はとぎ澄まされて行った。気むずかしく、絶妙に、貴重に、繊細に、低俗なものにたいしては神経質に、技法と趣味の問題に関しては極度に敏感になった。彼が初めて世に出たとき、専門の人々のあいだからはさかんな喝采と歓喜の声とが起った。彼が差出した作品は諧謔と苦悩の知識とにあふれ、丹精の末になった精妙をきわめたものだったからである。
~同上書P42
トニオ・クレーゲルとはヨハネス・ブラームスなのではないかとさえ思った。
理想的なブラームス。脂の乗ったバックハウスのピアノが唸る。
主導権を握るのは、カール・シューリヒトであることは間違いなかろう。
・ブラームス:ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1952.5.25&26録音)
晩年の、カール・ベームとの音盤を凌ぐ、否、まったく毛色の異なる、むしろ人間味と熱気さえ感じさせるシューリヒトとのブラームスの素晴らしさ。
全曲があっという間に過ぎ去る、一期一会的な解釈に僕は感動する。
第1楽章アレグロ・ノン・トロッポからバックハウスのピアノは脱力を保ち、ウィーン・フィルの管弦楽はブラームスのぶ厚い音楽を奏でるのに弾け、踊るのである。本来、憂鬱で思索的な解釈になりがちな終楽章アレグレット・グラツィオーソも何とも優美で感性的なものとして感化され、表現される。
それに、第3楽章アンダンテ—ピウ・アレグロの「歌」の心に迫る哀愁よ。
