
三島のヴェニスに関する印象が面白い。
第一にそれは頽廃している。救いようがないほど頽廃している。私はデカダンスというものの、こんなにも目にありありと映る実体を見たことがない。
イタリー人のことだから、そこに住む落ちぶれ貴族がどんなに頽廃しているといったところで、どこか呑気で、楽天的で、大ざっぱで、適当にその日その日を暮しているにちがいない。まして観光客相手の商売で暮しているここの一般市民は、ほかの都市のイタリー人同様、明るく、単純で、現世的で、享楽的で、抜け目がなくて、デカダンスのデの字も持たないにちがいあるまい。私のいうのは建物のことである。建物が人間などは尻目にかけて、それ自体の深いデカダンスに沈潜し、正に「滅び」を生きているのである。ここでは建物が精神であり、人間は動物のようだ。
~佐藤秀明編「三島由紀夫紀行文集」(岩波文庫)P209-210
存在するすべてのものは滅びに向っているものだが、人間の何倍もの寿命を持つ不動産に目を向け、そこにデカダンを見抜く三島の観察眼と感性に僕は拝跪する。永遠とは一体何か? あるいは普遍とはどういうものか?
作曲家(人間)を媒介にして生み出された音楽作品を後世の音楽家が再生する、いわば三位一体の如くの音楽芸術に頽廃はあるのかどうか。ヴェニスに生を得たアント人・ヴィヴァルディの音楽は明るく、単純で、楽天的、そして現世的な印象は確かにあるが、そこには間違いなくデカダン的な要素も聴き取ることができる。
久しぶりに聴いた、軽快ながら暗澹たる音調の協奏曲は、ヴィヴァルディの真の意味でのアートであり、深層吐露なのかもしれない。シュテックのヴァイオリン独奏は古楽器ながら深い音色を保ち、弦楽合奏も通奏低音もあくまで彼の独奏を前面に押し出し、遠慮がちに(?)佇んでいる。
ちなみに、三島に「美に逆らうもの」というエッセーがある。
世界旅行というものは、こんなわけで、いわば美の氾濫であり、美の泥濘のなかを跣足で歩くようなものであり、われわれは踝まで美に埋まってしまう。この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、美を作り、その美が多くの眷属を生み、類縁関係を形づくる。しかも、どうやったら美の陥穽に落ちないですむか、という課題は、多くの芸術家にとっては、かなり平明な課題であったと思われる。彼らはただ前へ前へ進めばよいと思ったのだ。そして一人のこらず、ついにはその陥穽に落ちたのだ。美は鰐のように大きな口をあけて、次なる餌物の落ちて来るのを待っていた。そしてその食べ粕を、人々は教養体験という名でゆっくりと咀嚼するのである。
~同上書P220
1960年頃の、日本人が未だ世界旅行など容易ではなかった時代の、三島流の美にまつわる辛口の(?)思考は、今もって通用する、否、今も昔も変わらない真理なのだろうと思う。
僕が今ここで聴くヴィヴァルディもいわば「食べ粕」のようなものだ。
そんなに穿った見方をせず、ただ音楽を楽しめば良い、そんなことを思った。