パレナン四重奏団のセザール・フランクを聴いて思ふ

franck_quartet_parrenin006日本古来の「道」でいう「守破離」は、決して若輩のためだけにあるのではない。ましてや日本独自のものでなく、古今東西いつどこにおいてもそれに通じる「謂れ」はあるようだ。そしてまた、それは何十年という時間を費やしたから云々というものでもない。ほんのわずかな期間に自らの「道」を発見し、そして実際にその「道」において師の座を射止める者も確かにある。

セザール・フランクは、下積みの時間が長かったとはいえ(いや、知る人ぞ知る存在だった)、ある時突然開花した「大器晩成」の人だった。

1889年頃にベートーヴェンやシューベルト、あるいはブラームスを徹底的に研究し、生み出された弦楽四重奏曲を聴いてそんなことを考えた。パレナン四重奏団の呼吸の深い、長い旋律はシューベルトを思わせる。物理的に確かに長尺なのだけれど、長さを一切感じさせない浪漫。渋い、モノトーンで内向的な響きはまさにブラームスのそれと相似形。その上、祈りの感情に溢れる音調は、ベートーヴェンの後期の世界さながら・・・。

言葉と音楽が結びつけば、それこそ史上最強の思想表現であり、感情表現だ。しかしながら、フランクの晩年様式はそういうものを超え、言葉なくしてすべてを語る。年齢を重ねる毎に、人々の感情はより純粋かつ単純になり、しかも他の影響を大いに受けながら独自の至高の世界に行き着くのである。もはやここにはかのヴァイオリン・ソナタに通ずる「フランクの世界」あるのみ。

フランク:弦楽四重奏曲ニ長調
パレナン四重奏団
ジャック・パレナン(第1ヴァイオリン)
ジャック・ゲスタン(第2ヴァイオリン)
ジェラール・コーセ(ヴィオラ)
ピエール・ペナスウ(チェロ)(1972.5録音)

短い主題がそれぞれの楽章に顔を出す「循環形式」はセザール・フランクの常套手段だが、奔りはベートーヴェンその人。冒頭に述べたように、この作品は限りなく楽聖の後期の世界を髣髴とさせながら、そこにブラームスの憧憬とフォーレの明朗さをあわせもつ傑作だ。

まるで墨絵。第2楽章スケルツォは飛び跳ねず、極めて地味。第3楽章ラルゲットの夢見るような慟哭は晩年のフランクの真骨頂。しかし、何と言っても素晴らしいのは、抒情的な主題を核とする両端楽章である。特に、フィナーレにおいて先行楽章それぞれの回想シーンが堪らない。
音楽は「時間」の表象だ。過去と未来が出逢う「現在」にその身を埋めることで、デトックスが生じ、新たな生が生れる。
フランクの音楽は素晴らしい。思わずヴェルレーヌをひもといた。

「沈む日」を。

たよりないうす明り
沈む日の
メランコリヤを
野にそそぐ。
メランコリヤの
歌ゆるく
沈む日に
われを忘れる
わがこころ
うちゆする。
砂浜に
沈む日もさながらの
不可思議の夢
紅の幽霊となり
絶えまなくうちつづく
うちつづく
大いなる沈む日に似て
砂浜に
堀口大學訳「ヴェルレーヌ詩集」(新潮文庫)P33

フランクの楽想はそうは言っても堅牢だ。やはり独墺の作曲家の影響下にあり、そこがまた安心を呼ぶ。

 

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