
過ぎた悪戯が二人の淑女を怒らせ、奴を懲らしめてやろうと罠にかけられ、見事それにはまるフォールスタッフの悲哀、というより軽妙などたばた喜劇。こういう物語を解釈させるなら断然ハンス・クナッパーツブッシュだろうと、放送局蔵出し音源を聴きながら僕はほくそ笑んだ。
ミュンヘンの新聞は、オットー・ニコライの歌劇が謝肉祭の時期に間に合い、20年ぶりにレパートリーの隙間を埋めたことを祝福した。実際、この作品は戦間期にクナッパーツブッシュ指揮で上演されて以来、一度も上演されていなかった。指揮者、作曲家、そして作品そのものが、異例なことに出演者よりも注目を集めた。もちろん出演者もまた好評を博したのだ。
カール・シューマンは南ドイツ新聞で次のように書いている。
「ハンス・クナッパーツブッシュ指揮の下、ウィリアム・シェイクスピアの音楽的翻案を聴くと、オットー・ニコライが「ウィンザーの陽気な女房たち」を作曲した功績は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の創設に関わったことよりも大きいと確信する。ニコライの楽譜に集約された5つの様式に加え、6つ目の、統一的な絆、すなわちクナッパーツブッシュ様式を見出すことができる」。
あるいは、ミュンヘン・メルクール紙は、「クナッパーツブッシュはニコライの魂を呼び起こす」という見出しで、「序曲ですでにニコライのロマンティックな月明かりの喜びと、やや荒々しい喜劇的な魂を呼び起こしていた」と報じた。また、最近亡くなったミュンヘン在住の2人の著名な作曲家の間で、ニコライの歌劇について意見が対立していたことを思い出させてくれた。リヒャルト・シュトラウスはこの作品を「美しいオペラであり、史上最高の傑作のひとつ」と評したが、ハンス・プフィッツナーはニコライをして「偉大なる詩人の遺体に糞の山を飼料として撒き、墓の上に雑草を生やすような作曲家と同列に並べたい」と酷評した。
(マイク・アッシュマン)
クナッパーツブッシュの音楽に秘められた、そういう二面性を見事に喚起する歌劇に、巨匠の遊び精神を垣間見ることができる。
少々時代がかった歌唱とセンスが気にならなくもないが、ひとたびクナの表現世界に没入すると、それがかえって麻薬のように心に沁み入るのだからすごい。

そのことは、以前聴いたとき以上にはっきりと、明確に僕の心を支配するのがわかる。
まずは序曲の決して洗練されているとはいえない野暮ったさ(?)こそクナッパーツブッシュの棒の成せる業。
決して有名なオペラとはいえないが、幕ごとの聴きどころは大いにある。
第1幕はフルート夫人のアリア「さあ、早く来てね」。
そして、第2幕はフェントンのロマンス「聴いて、雲雀が歌う木立で」。
同じく第2幕のフォールスタッフのアリア「ちっちゃな子どもで、母の胸に抱かれていた頃から」。
さらには、第3幕合唱「おお、甘美なる月よ」。序曲冒頭の旋律が懐かしく響く。
思わず聴き惚れた数時間。
この歌劇が決して凡作ではないことを教えてくれるクナッパーツブッシュの指揮はやっぱり見事なんだと痛感する。遊び心が大事なのだと。