
ブルーノ・ワルターはキャスリーン・フェリアーを初めて聴いたときの印象を次のように書く。
彼女の声は、他のどんな音にも増して私を感動させてくれました。彼女には、声だけでなく魂がありました。彼女の魂は、マーラーの作品の内なる魂をとらえ、会場に響き渡らせたのです。彼女の歌に込められた深い理解をもしもマーラー自身が聴けたとしたらどれほどの意味があっただろうかと私はしばしば考えさせられました。
澄み渡り、陽気で、素朴で、率直に見えるこの女性に、私は何か神秘的なものを感じました。この神秘感は、彼女の歌そのものだったのです。彼女は真実を響かせ、作品に込めた様々な宝ものを解き放ちました。そう、彼女の秘密は「一体感」だったといえましょう。フェリアーの容姿、魂、声、表情などすべてが美しかった。喜びから悲しみまであらゆる感情を表現し、どんな場面でも失うことの素晴らしさ、神秘の美を物語る、まるでオーラのような愛らしさを漂わせていたのです。彼女の早過ぎる死は本当に残念でなりません。
(ブルーノ・ワルター)
高校生の頃、フェリアーの歌う「大地の歌」を初めて聴いて、まるで幽界からの便りのようにも聞こえ、僕はあまりのリアリティに怖くなったくらい。

幾種かある彼女の「大地の歌」をすべて聴いたわけではないが、ライヴで聴くフェリアーの歌唱は、その壮絶さに気絶するほど感動的だ。

・マーラー:大地の歌
キャスリーン・フェリアー(コントラルト)
セット・スヴァンホルム(テノール)
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(1948.1.18Live)
ニューヨークはカーネギーホールでの実況録音。
ワルターの基本解釈は変わらない。
フェリアーの歌唱は、スヴァンホルムのそれと併せ、鬼気迫るものがある。
ワルターが感じた、彼女の魂がマーラーの魂と一体になっているのだといっても過言ではない、圧倒的名唱がここでは聴ける。
1912年の2月にウィーンで或る音楽祭が催され、その機会に私はウィーン・フィルハーモニーによってマーラーの『第九』を初演した。その総譜は『大地の歌』のそれと同様に、印刷にかかるまえの最後の校閲を綿密にする役目が、私に委ねられたのであった。同じ音楽祭のもうひとつの演奏会では『大地の歌』を、ウィーンの人たちに紹介した。こんどは—あるいはそのつぎの演奏のときだったろうか—アルト声部のかわりにバリトンを使った。マーラー自身どちらの声部を使うかに迷っていた—楽譜の指示は選択の自由を認めている—そこで私は彼のために、テストしてみる責任があると思ったのである。私はかねがね、誠実なマーラーの傾倒者であり芸術的に卓越したまじめな歌手である王立歌劇場のフリードリヒ・ヴァイデマンと、歌のパートを勉強しておいたし、彼もそれを例の内面性をもってうたった。然し私は、この実験を二度とくり返さなかった。なぜなら、アルトのほうが要求された発声上の課題をうまく解決できるばかりでなく、6つの歌すべてに男声がひびくよりも、アルトとテノールが交代したほうが耳に快いということを、確信したからである。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P260

スヴァンホルムの独唱も圧巻。
ライヴならではのワルターの音楽への没入具合、突き抜け具合が並みでない。
さすがに初演者だけある、またこの時代のグスタフ・マーラーの十字軍としての役割を全うせねばという責任感も感じさせる空前絶後の「大地の歌」に感動しかない。
