大自然の恵み

bach_partitas_schiff.jpg「恋物語」に向けて、妻の練習が佳境に入る。繰り返し流れるBGMのように、毎日同じ音楽を聴いていると、聴く側も自然に身についてしまうのだから面白いものだ。バッハのパルティータにベートーヴェンの最後のソナタ、そしてシューマンの第2ソナタなど。ベートーヴェンはともかくとして、人生の中でパルティータやシューマンのソナタをこれほど聴き込んだことはこれまでなかった。一般的に誰もが知るという音楽ではないものの、楽曲の生まれた背景を知り、音楽の中身を微細に知るにつけ、いよいよこれらの作品に情が湧く。

僕はどういうわけか昔からピアノ音楽が好きだった。そもそもクラシック音楽を聴き始めたのもショパンが最初だったし、ある時どうしても楽器を演奏したくなり、選んだのもピアノだった。ただそこにピアノがあったというだけでなく、ピアニストのあの早回しのような指使いに憧れたというのもあろう。とにかく楽譜を仕入れて見よう見まねで弾いた。もちろん全曲を通すなんてのは無理。誰にも教わらず、独学で勝手に音を出していただけだから運指も滅茶苦茶、何とか音楽になっているという程度だったのだが。

ベートーヴェンの例の「エリーゼのために」を最初に練習した。モーツァルトのK.283も好きで第1楽章の途中までは弾いた。それに、K.331の第1楽章の主題部から第2変奏あたりまでも。しかし、さすがにショパンは無理だった。作品9-2の冒頭は少し弾けるようになったかどうか・・・。全曲なんて通す必要はなかった。ほんの最初の部分だけでいいからかっこよく弾いてみたかった。「英雄ポロネーズ」、あるいは「舟歌」・・・。

得手不得手も当然あろうが、ピアニストに言わせると、バッハが最も手強いらしい。左が伴奏、右が旋律という音楽と違い、左右が同等の働きをするポリフォニーの極地であるがゆえの難しさ。ともかく数学的思考に長けていないと(つまり地頭が良くないと)相当厳しいようだ。

今、アンドラーシュ・シフのパルティータ集の新しい方を聴いているのだが、これがまた実に素晴らしい。「素晴らしい」とは何とも月並みな言葉なのだが、それ以外の言葉がまったくもって見つからないというくらい、とにかく全曲が一気に聴き通せるほど自然で理知的で、しかも感情にまで訴えかける全脳性をもっている。シフというピアニストは「平均律」全曲を一夜にして暗譜で堂々と、それもほぼミスタッチなく弾き切ってしまうテクニシャンらしいが、それ以上にエモーショナルな、実に心の奥底にまで響く(届く)音楽性をもった音楽家だ。

J.S.バッハ:パルティータ全集BWV825-830
アンドラーシュ・シフ(ピアノ)

初めてこの音盤を聴いたとき、これがとてもライブで録音されたものだとは到底思えなかった。あまりに自然で、まったくの恣意性もなく、粒の揃った音色が直截に脳天を貫く、そんな表現だったから。1回通して聴いてかなり感動したので、もう1度一から聴いて・・・。3年前の来日公演を聴かれた方もどこかで書いておられたが、シフは一切のペダルを排除して全6曲を完璧にコントロールして、注目する聴衆をノックアウトしたのだと。今更ながら、聴きに行かなかった自分をついぞ責めたくなってしまう。

とはいえ、この音盤の素晴らしさを簡単に語ることはやっぱり難しい。少なくとも僕の(決して専門的とはいえない)音楽的知識と語彙をどれだけ導入しようとも、その本質を言い当てる言葉は見つからない。ともかく聴いていただかねば(録音でこれだけの感動を与えるのだから実演では余程のものだったろう)。

ここまで書いて、たまたま「レコード芸術」12月号を開いたら、つい最近「パルティータ」全曲をリリースしたアシュケナージのインタビューが掲載されていた。
「愛しているとか、大好きだという言葉が適さない作曲家がバッハだと思います。というのは、ひとことで、彼の音楽をこうであると言い切るのが、とても難しいからです。バッハは、掛け値なしに真の天才であり、本物の才能を授けられた音楽家でした。そんな彼が私たちに残してくれた楽曲は、完璧なものです。私たちは、それを受けとって享受しますが、あれこれと評価すること自体が不可能だと思っています。大自然の恵みを享受するのと共通するものがありますね。それほど、彼の音楽は完璧ですし、感謝を捧げながらバッハの音楽に虚心に向かうことによって、自分自身を、より高いレヴェルへと引き上げてもらえると感じています。・・・」

なるほど、まさに。


6 COMMENTS

雅之

こんばんは。
・・・・・・私(青柳いづみこさん)がさる女性誌でインタビューを受けたとき、曲によっては楽譜を見たときにイメージがパッと湧くと言ったら、びっくりされたことがある。「それってどういうことなんですか。音が聞こえるんですか?映像になって飛び込んでくるんですか」などといろいろきかれた。
 小山(実稚恵)さんにも、「楽譜を見たとたんイメージが湧くことがありますか」ときいてみたら、ときによってインスピレーションが強い日と弱い日があるのだという。
 ある日、溢れるようにイメージを感じたので言葉で書き残しておいたとする。次の日に同じ曲を弾きながらその書きつけを見て、「あ、昨日はこんなに感じていたのに今日は全然だなあ」と思うことがあるとか。
―――体調や自分の集中もあるけれど、作曲家によって違いがあるかもしれない。もう誰が何と言ったってこう弾きたいって思う曲もあるし、誰かが何か言ったらそっちにしてみようかなってちょっと考えたり(笑)・・・・・・「あ、そうだよね、そういう解釈」と思っちゃう曲もあるし、そこに差がある(笑)・・・・・・
 小山さんの場合、「誰が嫌っても自分はこうしか感じない」という作曲家はラフマニノフやリストかと思ったら、意外にもバッハだという。
―――私、実はバッハが一番好きで、本能的に好きなんだと思いますね。響きも好きだし、楽譜も好きだし、すべてが好き。・・・・・・(青柳いづみこ著 「我が偏愛のピアニスト」中央公論社 79ページより)。
http://www.amazon.co.jp/%E6%88%91%E3%81%8C%E5%81%8F%E6%84%9B%E3%81%AE%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88-%E9%9D%92%E6%9F%B3-%E3%81%84%E3%81%A5%E3%81%BF%E3%81%93/dp/4120041549/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1290173259&sr=1-3
私はピアノは上手く弾けませんが、小山さんのお気持ちは、何となく理解できます。
愛知とし子さんの宇宙(バッハ)、小山実稚恵さんの宇宙(バッハ)、シフの宇宙(バッハ)、アシュケナージの宇宙(バッハ)、グールドの宇宙(バッハ)・・・、みんな併存していて、それぞれに素晴らしいのだと思います。パラレルワールドという言葉は、バッハの音楽にこそ相応しい。これぞまさしく宇宙の本質!!
みんな違って みんないい (金子みすず)

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
青柳いづみこさんの文章はどれも興味深いですね。
ご紹介ありがとうございます。
小山さんの言葉、僕も僕なりに理解できます。
>パラレルワールドという言葉は、バッハの音楽にこそ相応しい。これぞまさしく宇宙の本質!!
おっしゃるとおりですね。バッハを自由に弾けたら・・・、想像するだけで戦慄を覚えます。
>みんな違って みんないい (金子みすず)
この詩も泣けます。

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雅之

おはようございます。
>バッハを自由に弾けたら・・・、想像するだけで戦慄を覚えます。
岡本さんによい提案があります。
奥様からきちんとピアノの基礎を学ばれて、
まず、バッハのメヌエット ト長調 BWV Anh.114
http://www.youtube.com/watch?v=2MNu3Jdlkn4
を弾けるまでになられてはどうでしょう?
お仕事の片手間でも、充分目標達成は可能だと思いますが・・・。
何事でもそうですが、要はやる気だけの問題でしょう?(笑)

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
確かに何事もやる気ですね。
ご提案ありがとうございます。
一聴簡単にできそうな気もしますが、やっぱり基礎を押さえないとですよね。
がんばってみます。

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雅之

こんばんは。
ところが、自分で話を振っておいて言うのもなんですが、この、小さな子供でも誰でも知っている、J.S.バッハ/メヌエット ト長調 ~(「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」より BWV Anh.114)、調べてみると、じつはバッハ作ではないのですね!! 
自分は今までそんなことも知らなかったのかと、またまたあきれました(苦笑い)。クリスティアン・ペッツォルト(1677-1733)作曲というのが真実のようで・・・。
※参考サイト ↓など多数
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012614580
http://blogs.yahoo.co.jp/hirofuruya1031/10699022.html
でも、バッハの作曲として通ってきて、誰からも愛され親しまれて弾かれ聴かれた歴史そのもののほうがとても大切なことで、ここまでくれば、もう誰の作でもいいじゃないか! 後の世まで、いつまでも残る名作には違いないじゃないか!というのが私の本心であります(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
へぇー。
お恥ずかしながら僕も今まで知りませんでした。
いやぁ、音楽、歴史って奥が深いですね(笑)。
>ここまでくれば、もう誰の作でもいいじゃないか! 後の世まで、いつまでも残る名作には違いないじゃないか!
同感です。ありがとうございます。

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