マゼール指揮ベルリン・フィル ラフマニノフ 交響曲第2番ホ短調作品27(1982.12録音)

10年ひと昔という。
時間の経過はまさに矢のようだが、たぶんあれ以来耳にしていなかった音盤を久しぶりに聴いた。

マゼール指揮ベルリン・フィルのラフマニノフ交響曲第2番を聴いて思ふ マゼール指揮ベルリン・フィルのラフマニノフ交響曲第2番を聴いて思ふ

曇り空から顔を出した太陽が、その光がとても眩しかった。
小春日和とも違う、何だか生温い空気に3月末の陽気を思った。

秋が深まり、冬の足音がそこまで来ている季節には、ロシアの音楽が恋しくなる。
それは独墺音楽のもつ愁いとは違う、ノスタルジックな、感傷を伴った鬱屈の音楽だ。
心を患った作曲家の、浪漫を髣髴とさせる美しい交響曲。

あの日も僕はとても感動した。
そして、今日もあらためてとても感激した。

・ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調作品27
ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1982.12録音)

録音当時、ベルリン・フィルはカラヤンとの間で大揉めに揉めていた。
例の、「ザビーネ・マイヤー事件」である。

フルトヴェングラーの場合、新しい器楽奏者の採用に関して首を突っ込むことはせず、オーケストラに完全に任せていたが、カラヤンになってからは、楽団員の新人獲得は、以前から指揮者とオーケストラとの大きな争点になっていたのだ。
「戸を開けて入ってくるだけで十分だ、その人がどんなふうに吹くか、どう弾くか、もうわかってしまう」とこの指揮者は豪語する。

ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P316

矛と鉾とのぶつかりは平行線にしかならないものだ。(憎しみを残すだけで、何も変わらない)
指揮者とオーケストラのそういった中で現われたのがマイヤーだったのである。

1982年の「創立記念の年」になると、これまでのように衝突なしでは済まなくなった。ウルフ・ローゼンホイザーの第1クラリネットのポストが空いた。そのポストにバイエルン放送交響楽団に在籍していた23歳のザビーネ・マイヤーが応募したとき、彼女はこの「強烈な集団」と首席指揮者との間に突然勃発した、権力闘争に巻き込まれる。
~同上書P316-317

プライドを滅多滅多に打ち砕かれた(?)カラヤンが採ったのは半ば強引な方法での仕事の停止要請だった。しかし、それでもベルリン・フィルは屈しなかった。

さらに楽団員は、1982年12月3日付のウィーンからの手紙を受け取る。

規約上、候補者の採用の可否を決定するのはあなたがたの権利です。しかし、オーケストラと私とが、芸術的な価値判断では正反対の立場にあることが証明されました。私は、ベルリン・フィルの仕事は契約通りおこないますが、
・演奏旅行
・ザルツブルクとルツェルンの音楽祭
・テレビや映画のための、オペラやコンサートの録画・録音
はすべて、目下の状況では停止します。


その下に手書きの大文字で「敬具 ヘルベルト・フォン・カラヤン」とあった。
~同上書P318-319

こういう荒れた状況の中でのマゼールとの録音であったことを忘れてはならないだろう。
そういうときだからこそカラヤン以外の棒でベルリン・フィルは奮闘した。
そして、恐るべき記憶力と類稀なる音楽性を保持するロリン・マゼールとの音楽作りに奉仕したのだ。
(そんな風にも思える)

こういう素晴らしい経験の中で、カラヤンが亡くなった後、ベルリン・フィルの後継者は自分だろうとマゼールは勘違いする。(そもそも彼はオーケストラから「自惚れが強い」と考えられていたのだからどうにもならない)
結果的にクラウディオ・アバドが選任され、マゼールは次のような声明を出したという。

「1957年から始まった我々の協力関係を解消します」

彼は、予定していた4回の演奏会、オーストラリア・ツアー、3つのレーベルから出す予定だった12枚のCD(合計40回の録音)を断ってきたのである。
~同上書P347

マゼールは後に鬱病を発症したそうだが、彼もやっぱり「我(エゴ)の塊」だったことがわかる。

抜群の演奏、中でも第3楽章アダージョの美しさに僕は痺れる。
これほどの才能が・・・、とてももったいない。

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