
ブルックナーのシンフォニー楽章の再現部においては、自由奔放にして妥当性に欠ける造形が、ある種の人々によって模範的なものとされてはいるものの、その欠点を暴露する。ベートーヴェン、いなブラームスにもまだ見られた繰り返しが、ブルックナーにはもはや不可能である。もしそうだとすれば、彼はシンフォニー楽章の内部において何をすべきなのであろうか。とりわけ最初のいくつかの楽章がしばしば再現部に見せる空白は、こうした状況から生じたものである(第4、および第7交響曲)。
(1946)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P48-49
おそらく訳出の問題だろうが、今一つフルトヴェングラーの真意を掴みにくい文章だ。
フルトヴェングラーは再現部を「リピート」並みに正確に模倣せよというのだろうか。
僕はフルトヴェングラーのブルックナーについても誤解があった。
振り返ってみると、最初に聴いたのはキング・レコードから出ていたロンドン・レーベルのアナログ・レコードによる「ロマンティック」だった。それが改訂版によるものだという認識はほぼなく、音楽の素晴らしさに圧倒され、幾度も繰り返して聴いていたことを思い出す。
フルトヴェングラーのブルックナー交響曲第4番(1951.10.29Live)を聴いて思ふ フルトヴェングラー自身が晩年に朝比奈隆に語ったところによると「ブルックナーの第9番を演るなら原典版でやりなさい」という忠告があったという有名なエピソード。慌てた朝比奈が、それまで存在すら知らなかった原典版のスコアを取り寄せたところ、似ても似つかぬものだったので、それをもとに急ぎパート譜を起こすよう命じたという。
もちろん宇野功芳さんの評論の影響も大いにあるのだが、なんでもかんでも原典がベストであり、またブルックナーに相応しい造形があることを鵜呑みにしてしまった僕は、以来、先入観からフルトヴェングラーのブルックナーを遠ざけるようになっていった。しかしながら、先のフルトヴェングラーの言にもあるように、そんな彼でさえ造形について云々しているところを鑑みると、音楽の造り方において絶対的基本というものは存在しないのである。
結局、聴き手が100%満足する演奏など存在しないということだ。
ならば、批評精神を横において、ただただ音楽を堪能することしかない。
音楽を愛するものに求められるのは、敬意をもってのひたすらな傾聴なのだと思う。
エトヴィン・フィッシャーの言葉を拝借する。
宇宙におけるいっさいの現象は変化であり、永遠の生成と消滅とである。それでも、大自然はこの久遠の輪廻の輪からのがれようとするものであるらしく、つねに新たな世代と、より高度に形成された新しい様式とを創造することにより、死を克服しようと努めてやまない。しかし、古人が嘆じたように、人間も「やがてうつろい消えてゆく。眺めくらせし花々のはかなき美にも似たるかな」。しかしそのとき、魂は、はるかなる失われた故郷へのかすかな追憶を、なおもいだき続けているかのごとく、精神が起ちあがり、生死の彼方になにものかを求めるのである。そして、この永遠への憧憬のなかで、精神は宗教的、精神的、芸術的諸価値を創造し、それらの光を彼の同時代および後世に放射する。精神はかくして、その束の間の地上の生存を超えて生き続けるのである。
「芸術と人生」
~フィッシャー/佐野利勝訳「音楽を愛する友へ」(新潮文庫)P14-15
音楽家はみな誰しも、フィッシャーのいう観点から生成と消滅を繰り返す作品を創造し、また再生するのである。音楽は、まさにこの大自然の法に則った、陰陽二元世界における最高の芸術形態なのだ。
・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(フェルディナント・レーヴェ改訂版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.10.29Live)
三たび「ロマンティック」。ミュンヘンでの実況録音は、その1週間前のシュトゥットガルトのものに比較して、一層熱が入り、興に乗るフルトヴェングラーの指揮姿を髣髴とさせてくれる。
この、動きのあるブルックナーがまた素晴らしいと思えるようになった僕は偉い(笑)。
フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのブルックナー「ロマンティック」(1951.10.22Live)を聴いて思ふ 