
少年の頃、あるいは思春期の記憶。
当時の体験が少年に与えた衝撃は並大抵ではなかった。
(僕の場合は、随分大人になってからだったが)
そして、同じく8歳のとき、もう一人の大作曲家が、少年プーランクに「現代音楽の扉」を開いてみせた。少年は、目の前で演奏されるハープと弦楽アンサンブルの音楽に「やられて」しまったのだ。
「なんて綺麗なんだ! それに少し変!」
そう感じた彼は、家に帰るなり、耳にしたそれらの音をピアノで再現していた。
その音、「九の和音」(例えば、下から「ドミソシレ」の五音から成る不協和音)は、20世紀になって間もない時代の少年の耳には、「すごく新しくて、クラクラした」のである。そのとき演奏された曲目は、クロード・ドビュッシー(1862-1918)が1904年に作曲した《神聖な舞曲と世俗の舞曲》である。以来、ドビュッシーは彼にとって、「モーツァルトの次に大好きな作曲家」となった。
~久野麗「プーランクを探して 20世紀パリの洒脱な巨匠」(春秋社)P11
わずか8歳の少年が受けた衝撃はいかばかりだったか!?
聴いた音楽をそのままピアノで再現できる音感とセンスはさすが。
モーツァルト同様の神童ぶりをみせたフランシス・プーランクの原体験のひとつだろう。

ドビュッシーの洗礼を受けていながらなお、11歳の彼は、ドイツ・ロマン派の歌曲にも夢中になった。彼をとりこにしたのは、シューベルトの歌曲集《冬の旅》である。楽譜を手にした彼は、それを繰り返し弾き、そして歌った(プーランクの最初の志望は、ピアニストでも作曲家でもなく「歌手」であった)。
~同上書P12
歌手を志願していたプーランクにとってフランツ・シューベルトも神だった。
それにしても「冬の旅」の虜になっていたとは!?

だがそれから数年後、少年プーランクは、ドビュッシーにも匹敵する、衝撃的なある作曲家との出会いが訪れ、いよいよ現代音楽と向き合うことになる。
~同上書P12

《春の祭典》が再演された1914年、同じストラヴィンスキーの《ナイチンゲール》が、プーランクの創作欲に火をつけた(創作に直接つながったのは、決して《春の祭典》ではなかった、とプーランクは述べている)。
~同上書P13

20世紀初頭のパリのスキャンダルの近いところにいたのは極めつけだろう。
「春の祭典」の衝撃はもちろんのこと、「ナイチンゲール」にこそプーランクは痺れた。
ロンドンはキングズウェイ・ホールでの録音。
秋深まり行く季節に最晩年のモントゥー指揮するクロード・ドビュッシーの音楽が心を癒す。
音楽に内在する自家薬籠中の瑞々しさは、明らかに老練によるものだろう。
64年前の録音が、これほどまでに生き生きと再現される様子に、巨匠の音楽が時間と空間を超えて影響を与えることがわかる。
世には純粋に観照的で、全く行動に適しない人々がある。しかしながら、時として彼らもまた、ある神秘な不可解な衝撃のもとに、恐らく彼ら自らが不可能と考えていた素早さで、行動に移ることがある。
「けしからぬ硝子屋」
~ボードレール/三好達治訳「巴里の憂鬱」(新潮文庫)P29
