シュヴァルツコップ ゼーフリート ギューデン シェフラー クンツ フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」K.492(ドイツ語歌唱版)(1953.8.7Live)

フルトヴェングラーの「ザルツブルク音楽祭」と題する小論に次のようにある。

人々はオーストリア気質について語り、モーツァルトについて語る。もちろんそのいずれもがもっともなことであろう。しかし、うぬぼれた自己観察のうちに自らを語り、自分を「取り引き」の対象物として世界に宣伝し、自意識過剰となったオーストリア気質は、すでにその最もすぐれた側面をなくしてしまっている。飾り人形、風俗、ポスターとして現われるモーツァルトなどは、もはや真の守護神とは言えない。たんなるオーストリア気質よりも深いなにものかが存在している。だからモーツァルトの作品にザルツブルク音楽祭の本来の姿、あるべき姿を反映させるためには、モーツァルトをその全存在において捉えねばならぬ。土地に根ざし、その土地固有のものとなった芸術感情ならびに生命感情、その基盤の上にザルツブルク音楽祭は成立するのである。モーツァルトの名において自己のたぐいない複合性と混合性とをみごとに特色づけられる、あのオーストリア的・ドイツ的な文化環境が、自らはそれを意識することなしに、この音楽祭のなかにまぎれもなく自己の表現を見出したのである。ザルツブルク音楽祭は世界に語るべきなにものかを持っている。なぜならこの音楽祭は、自己の背景をなすこの土地をさしおいては、事実、世界の他のどこにおいてもこれほど人間の全生命と結びつき、真剣に受けとられ、生気あるものとはなりえない—もちろん音楽上の—事物を対象としているからである。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P153-154

グローバリズムが席巻する以前の世界にあって、音楽祭そのものに民族色というのか、ナショナリズムを求めるフルトヴェングラーの真意はわからなくもない。世界を一つにするのは一切の思惑のない、恣意のない、エゴではない本性によってでなければどうにもならないからだ。今やモーツァルトも金儲けの材料に使われているようで気味が悪い(リヒャルト・ワーグナーらもだが)。

へヴィー?? へヴィー??

年を重ねて、この録音に関する印象が随分変わった。
フルトヴェングラーの「フィガロの結婚」ザルツブルク・ライヴ。とても素晴らしいと思った。今やドイツ語歌唱への違和感もない。不思議なものだ。

音楽でも何でも、芸術というものは受け手の感性や器に大きく左右される。
知識はもちろんのこと数多の体験が重要だ。

フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527(1954.8.6Live) フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」K.527(1954.10収録) フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルの「ドン・ジョヴァンニ」(1950.7.27Live)を聴いて思う フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルの「ドン・ジョヴァンニ」(1950.7.27Live)を聴いて思う

《ドン・ジョヴァンニ》と《フィガロの結婚》もまた、とてつもなくすばらしい公演となった。おそらく当時これらの作品にとっての可能な限り最高の歌手が起用され、さらにヘルベルト・グラーフという聡明で控えめな演出家を配したためだった。
サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P351-352

フルトヴェングラーは豊かな宝物を目の前にして、音楽面から総てを束ねる解釈をし、それをヘルベルト・グラーフのような演出家が仕上げていく。決して、統制するのではない。集まった演奏者全員の中から自然に湧き出た解釈を発展させていくのだ。
~同上書P353

序曲から聴きもの。
モーツァルトがまるでベートーヴェンのように響くが、コーダの加速に聴衆が色めき立つ様子が手に取るように見える。喜びの一日を見事に表現する4分30秒余り。全存在においてモーツァルトを捉えんとするフルトヴェングラーの真骨頂がここにある。

・モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」K.492(ドイツ語歌唱版)
パウル・シェフラー(アルマヴィーヴァ伯爵、バリトン)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(伯爵夫人、ソプラノ)
エーリヒ・クンツ(フィガロ、バリトン)
イルムガルト・ゼーフリート(スザンナ、ソプラノ)
ヒルデ・ギューデン(ケルビーノ、ソプラノ)
ジークリンデ・ワーグナー(マルチェリーナ、アルト)
エンドレ・コレー(バルトロ、バス)
ペーター・クライン(バジリオ、テノール)
アロイス・ペルネルシュトルファー(アントーニオ、バス)
リーゼロッテ・マイクル(バルバリーナ、ソプラノ)
エーリヒ・マイクート(ドン・クルツィオ、テノール)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.8.7Live)

1953年ザルツブルク音楽祭は祝祭大劇場の記録。
正面から、かつ、その場に居合わせていることをイメージして耳にすると、フルトヴェングラーのザルツブルク音楽祭に対する思いと、またモーツァルトの音楽に真摯に向き合う姿勢が相まって、実に感動的であったことがわかる。

ドイツ語歌唱によって、堂々たる「フィガロの結婚」が眼前に披露されるが、実に違和感がない。

有名なアリアのそれぞれがいかにもフルトヴェングラー色に塗りたくられたものだが(時代がかった表現もまたよろしい)、それがまた今となっては美しく、心動かされるのだ(歌手陣のこの公演にかける思いまでもが伝わるのだ)。

1951年に「オテロ」を上演したフルトヴェングラーは、翌年には「フィガロの結婚」を採り上げる予定だった。舞台装置は異例に豪華なものになるようだったが、フルトヴェングラーの突然の病気のためキャンセルを余儀なくされた。
そして翌1953年の夏、「ドン・ジョヴァンニ」の新演出だけでなく、ついに「フィガロ」の再演を指揮したのだが、そのときは「ドイツ語版」を選択したため、キャストや演出はほぼ同じにもかかわらず、公演そのものはまったく違った印象を与えたのである。


公演後の批評には次のようにある。
「イタリア語版からドイツ語版への変更が、歌詞と音楽の一致をまったく損なっていない。それは、すべての身振りやすべての歌詞に通じていた。」(「ザルツブルク・ナハリヒテン紙」マックス・カインドル=ヘーニヒ)

「テンポの異例なニュアンスが熱狂を呼んだが、その音楽作りは完全に音楽への直接的で内的な視点からの産物であり、外からの仮ものではない」(「ディ・プレッセ紙」ハインリヒ・クラリク)
(ゴットフリート・クラウス、1996)

ヴィナイ マルティニス シェフラー ウィーン国立歌劇場合唱団 フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ヴェルディ 歌劇「オテロ」(1951.8.7Live)
第1幕ケルビーノのアリア「自分で自分がわからない」(ヒルデ・ギューデン)
第1幕フィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」(エーリヒ・クンツ)
第2幕伯爵夫人のカヴァティーナ「手を差し伸べてください愛の神様」(エリーザベト・シュヴァルツコップ)
第2幕ケルビーノのアリア「恋とはどんなものかしら」(ヒルデ・ギューデン)
第3幕アルマヴィーヴァ伯爵のレチタティーヴォとアリア「訴訟に勝ったと!—わしがため息をついている間に」(パウル・シェフラー)
第4幕スザンナのアリア「恋人よ早くここへ」(イルムガルト・ゼーフリート)

すべてが終ったときに、その意味がわかるもの。
あるいは、一定の時間を経てこその意義なのである。

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