
僕は随分長い間、フルトヴェングラーのモーツァルトを誤解していた。
モーツァルトほどの天才の作品となると、実際のところはどんな解釈をも受け容れてしまう器の大きさがある。一昔前の、浪漫的解釈が時代錯誤だというのも違うし、重過ぎるというのも違う。一つの音楽として完全であり、聴後の満足感で測ればこれほど優れた演奏はないと言い切れる。
音楽のアテネ! ヴェニスに見られるイタリア風の音楽祭でも、ルツェルンに見られる媒介や試みでもなく、またエディンバラに見られるイギリス的で、国際的な大がかりな見せ物のたぐいでもない。ここにおいてはベートーヴェンとモーツァルトが、『フィデーリオ』と『魔笛』が、ただその完璧な上演を期待されるだけではなく、私たちの生命の真髄として把握される。
「ザルツブルク音楽祭」(1949)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P154
「フィデリオ」は人類救済の物語であり、また「魔笛」は生死を超えた、不変の真理獲得(すなわち悟り)のドラマであることを考えると、フルトヴェングラーは(おそらく無意識に)ザルツブルク音楽祭の重要性を、モーツァルトやベートーヴェンの音楽が世界平和に貢献するだろうことを理解していたのだろうと思う。
   フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン「フィデリオ」(1948.8.3Live)を聴いて思ふ   
   フルトヴェングラーの「魔笛」(1949)  フルトヴェングラーの「フィデリオ」は確かに永遠のドラマだ。
そして、ザルツブルク音楽祭での「魔笛」も実に濃厚で、人間臭いメルヘンだ。
演奏の人間臭さがおそらく誤解を生んでいたのだろうと思う。しかし、個性とは人間臭さそのものなのだからそれは無視できない。むしろ音楽の本質をどれだけ追究できるかが鍵だ。
エピクロスは、死とはわれわれにとって何でもないといっている。すべての善と悪とは感覚の問題である。この死はわれわれにとって何でもないという真実を正しく知ると、人生における死も、楽しみの源泉となる。不確実な時間をこれ以上増やさず、不死への憧れがとり除かれる。そこで、諸悪の中で最も恐ろしいものである死は、何でもなくなるのである。なぜなら、生きている間は死は存在せず、死が存在すると、われわれは生きていないからである。命を失うのを恐れるのは無駄である。命を失う時には、それが悪であるかどうかを判断する命がすでにないのだから。
~エドワード・J・デント/石井宏・春日秀道訳「モーツァルトのオペラ」(草思社)P272
肉体という視点から見ると生は永遠ではないが、命そのものは不死であることを考えると本来死を怖れることはひとつもない。「魔笛」の物語は、250年も前にそのことを人類に示そうとした。生きているうちに僕たちが行うべきは利他行である。
どの瞬間も緊張感に満ちる唯一無二の「魔笛」。
そういえば以前、「魔笛」第1幕のフィナーレと「ジュピター」交響曲第1楽章の終結が(スコア上はまったく異なるのに)よく似た音楽に聴こえるというコメントをいただいていた。そのときには気づかなかったのだが、このフルトヴェングラーの演奏を聴くと、確かに「ジュピター」第1楽章の終結とは明らかに異なることがわかる。
   メトロポリタンの「魔笛」を観る  それほどにフルトヴェングラーは楽譜に書かれた音楽そのものを大事にしたのである(そこにはもちろん巨匠ならではの解釈はあるだろう)。
「魔笛」はどの瞬間も素晴らしい演奏が繰り広げられるが、幕が進行するにつれてますます音楽は神々しくなっていく。
第2幕第10番ザラストロのアリア「おー、イシスとオシリスよ」の深み(グラインドルの表現力!)。
あるいは、第2幕第14番夜の女王の堂に入った(明るめの)アリアの凄味!!
そして、CDでいうところの3枚目は第21番フィナーレが収録されているが、このシーンこそフルトヴェングラーの真骨頂。
   おお、永遠の夜よ!   