バックハウス クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(1951.5録音)ほか

ベートーヴェンのピアノ協奏曲に関しては、バックハウス独奏によるシュミット=イッセルシュテットとの協演盤を昔から愛聴していた。深層にまで刷り込まれている演奏は、いつもの如くいつ聴いても新鮮で、安心感のあるものだ。

バックハウス&シュミット=イッセルシュテットのベートーヴェン協奏曲第4番&第5番を聴いて思ふ バックハウス&シュミット=イッセルシュテットのベートーヴェン協奏曲第4番&第5番を聴いて思ふ

そのせいもあるのだと思う、僕は長らくクレメンス・クラウスとの旧録音を無視してきた。しかし、モノラル録音といえど、50年代のバックハウスの演奏は、一層活気に溢れ、ベートーヴェン弾きとしての真価をより発揮しているように思える。もっと早く、真面目に聴き込んでいれば良かったと後悔するほどに。

バックハウスには、その生き方と演奏態度の全体を通じて、もって全幅の信頼をおくべき剛直廉潔の士といった趣きがあった。本にもそう書いてあり、私も彼の演奏をきいて、そう信じるのだが、そうだからといって、これをドイツ的な美徳のあらわれと簡単にきめこんだり、バックハウスにドイツの芸術家というレッテルをはるのも、考えものなのである。事実はそれに近いのだが、それは初めからそうだったのではなくて、バックハウスのような人の、ほとんど70年にもおよぶ長い経歴の現存が「ドイツの音楽家」というものに、こういうイメージを与えることになったのである。
「バックハウスの訃報をきいて」(昭和44年7月19日)
「吉田秀和全集12 カイエ・ド・クリティクI」(白水社)P169

その月5日に亡くなったバックハウスの訃報を受けて書かれた吉田さんのエッセイの、バックハウス評の確かさ。半世紀以上前の筆致が、巨匠のベートーヴェンの素晴らしさを、凄さをあらためて思い起させてくれる。

バックハウスのベートーヴェン演奏のスタイルは、要するに、「作品がすぐれていればいるほど、演奏もますますりっぱに真価を発揮する」ような具合になっているのである。
彼の演奏には、総じて、何かの部分の強調、誇張ということが、ほとんどまったくない。かえってそれぞれの作品のもっているものをそれぞれ正しく発揮さすことに成功するのは、そのためだ、といってもよいかもしれない。

「吉田秀和全集6 ピアニストについて」(白水社)P48

なるほど、確かにその通りだと僕は思った。いかにバックハウスが正統的な演奏哲学を持った人であったか、そしていい加減な表現ができなかった人であるかがよくわかる。この論を吉田さんは次のように締める。

私は、バックハウスの演奏は、要するに曲がよければよいほど演奏もよくなるといったふうのものだ、と書いた。だから、彼の演奏をきていて好きになった曲があるとすれば、それはまず名曲にまちがいないと考えてよいのである。ある種の名人は、たいして内容のない曲でもすばらしくひいてきかせることができるけれど、バックハウスにはそれができない。
~同上書P53

実にわかりやすい。
実際に、巨匠の弾くベートーヴェンはいずれも名演奏であるゆえ、それらはすべて傑作だといえる。楽聖ベートーヴェンこそ本物なのだ。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(1951.5録音)
・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」(1953.5録音)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

いずれも後のシュミット=イッセルシュテット盤を凌駕する。
生命力と活気と、それこそバックハウスならでの自然体のベートーヴェン。

第4番ト長調は、第1楽章アレグロ・モデラート冒頭の独奏ピアノから聴き手を惹きつける純粋な(?)、ベートーヴェンへの並々ならぬ愛情を感じさせる渾身の優しい演奏。そして、続くクラウスの棒による管弦楽提示もウィーン・フィルの美感を活かした、極めて自然体の、しかし熱い音楽を聴かせてくれる。

第5番変ホ長調「皇帝」ももちろん(無駄を削ぎ落した)名演奏。
こちらについてはまた別の機会に書こう。

バックハウス ベーム指揮ウィーン響 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番(1967.4録画)

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