
半世紀以上前の、吉田秀和さんによる「バレンボイムとズッカーマンの演奏」評が面白い。
吉田さんは、まだまだピアニストとしての活動の方が重きをなしていた若き日のバレンボイムらの演奏から感じた印象を率直に書かれているが、これがまた言い得て妙であり、年齢を相応に重ねた後の、指揮者としてのバレンボイムにその妙が引き継がれている面、あるいはそうでない面がはっきり出ていて興味深いのである。
それは、昭和48年4月3日の東京郵便貯金ホールでのオール・ベートーヴェン・プロのリサイタルだった。
この二人は「ユダヤ的な」粘り強い徹底性で、音楽にもう一度「たっぷりしたテンポで心ゆくまで歌うこと」をとりもどそうとしている。ズッカーマンの恐ろしく大きくて目立つヴィブラート、たっぷりした弓の使い方、そこから生まれてくる、官能的で色彩的な音楽。根本的にロマンティックなバレンボイムの優しい愛撫と逞しいダイナミズムとの間を自在に往復しながら、ほとんどいつもクリアなタッチを失わず、ほとんど絶対にフレーズの輪郭を崩すことのないピアノ。この二人は、いわば、「散文詩」的なスタイルで音楽を歌い、かつ、物語るのだが、その途中では、これまで私たちのききなれていたのとは、ずいぶん離れた演奏になる場合が出てくる。いや、私には、彼らが、これまで大家たちの踏みならしてきた道からどれだけ離れても、「ベートーヴェン」を見失わずにすむか、知りたがっているように思える時さえある。そうして、事実、道草をくってみると、これまで気がつかなかった「美しさ」が、あの「きびしく、いかめしい」ベートーヴェンのいろいろなところにみつかるのだ。
~「吉田秀和全集9 音楽展望」(白水社)P314-315
当時のバレンボイムやズッカーマンの姿勢は、演奏家として「守破離」の「破」の位置に差し掛かったところだったのだろうと想像するが、実演に触れていない僕には残念ながら何も語る資格がない。それでも吉田さんのこの文章から考えられるのは、世紀末に、満を持して指揮者として録音した「ベートーヴェン交響曲全集」が、ついにバレンボイムらしさを獲得した、すなわちフルトヴェングラーの亡霊から逃れ、やっと「離れる」ことのできた証しとしてのものではなかったのかということだ。(四半世紀を経ての脱却!!)
リリース当時の評論にはフルトヴェングラーの単なる模倣という酷評もまま見られたが、今の耳で素直に接してみると、何と立派な、いかにもバレンボイムらしい、「根本的にロマンティックなバレンボイムの優しい愛撫と逞しいダイナミズムとの間を自在に往復しながら、ほとんどいつもクリアなタッチを失わず、ほとんど絶対にフレーズの輪郭を崩すことのないピアノ」を髣髴とさせる音楽作りであることが理解できる。
・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン(1999.5-12録音)
ロマンティックでありながら、決して粘り過ぎない潔さ。
それこそフレーズの輪郭は常に明瞭で、崩すことのない楷書体の演奏に(ティンパニの鳴動!)、あらためて僕は感激したのである。
全編を通じ、大宇宙の、大自然の畏怖と同時にその恩恵に感謝するベートーヴェンの心を、オーケストラと見事になって表現する指揮者の真摯な姿勢に嬉しくなるほどだ。
中でも、後半3つの楽章が素晴らしい。
ベートーヴェンが、自身の心情を投影させた神なる音楽を、バレンボイムは同じく心を通じさせて音化する。
聴いていて涙が出てくる。
僕たちは、大自然にもっと感謝をせねばならない。
