アバド指揮ベルリン・フィル ドヴォルザーク 交響曲第8番ほか(1993.11Live)

ベルリン・フィル時代のアバドについては今でも賛否両論あろうが、当初はむしろ批判の方が多かったように思う。特に、テーマを設けた画期的なコンサートの開催については個人的には最高の賛辞を送りたいのだが、観客動員という点では決して振るわなかったそうだ。

アバドは語る。

我々ベルリン・フィルのみならず、他の文化機関で仕事をする人々も、ある一つのテーマに心躍らせ、あらゆる方向からテーマを深めていくことを期待しています。文学、映画、音楽の各ジャンルの研究が、多かれ少なかれ、本来の主要な催し物と直接に結びつきます。(・・・)毎年の中心的テーマを決めることは、類似、連想、メタファーを生かすことでもあります。
(クラウディオ・アバド)
ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P375

アバドのねらいは的を射るものだったと思う(残された音源のすべてが興味深く、また名演奏揃いというのも素晴らしい)。

素晴らしい熱狂が渦巻き、何の問題もありませんでした。困難や障害があれば、連帯の精神で対処し、解決しました。ベルリン・フィルから、この街全体に活気をもたらす文化的運動を推進する力を引き出すことがなぜ可能だったのか、ここにその理由があると思います。
(クラウディオ・アバド)
~同上書P374

しかしながら、聴衆のニーズという意味ではおそらく内容的に少々ハードルが高かったのだと見える。内容が高度になればなるほどとっつきにくくなりがちで、ましてポピュラーな名曲がプログラムに並ばないとなると、即座に聴衆は背を向ける。

マスコミがアバドを標的にしはじめただけでなく、聴衆もますます彼から気持ちが離れていった。彼は楽譜にはまったく「忠実」である。しかしそれは、他の高名な指揮者とあまり違いがないという意味でもある。ある記者が書くように、高水準ではあるが特徴がないということだ。聴衆は、時にはリスクを冒すような天才を求めていた—たとえそれが異常であっても、冒険が失敗しても、アバドはフルトヴェングラーのように音楽に没頭できる。だが人は、他と間違えようもない。爆発的で、とてつもなく、圧倒的なものを求めていた。
~同上書P376

カリスマ性を持たないのだと認識があったからこそアバドは他に類を見ない方法で音楽を提供しようとしたのではないか。しかし、アバドには間違いなく固有のカリスマ性があったと今になって思う。

同時期の、ベルリン・フィル就任間もない頃の演奏を一つ一つ具に聴いてみて思うのは、そこには明らかに爆発的な情念が眠っていて、虚心に耳を傾ければ間違いなく感動をいただける音楽が目白押しであるということだ。
渾身のドヴォルザーク!!

ドヴォルザーク:
・交響詩「真昼の魔女」作品108(1896)
・交響曲第8番ト長調作品88(1889)
クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1993.11.16-19Live)

「楽譜に忠実」かどうかは別にして、一切の衒いなく音楽が生き生きとなる様子に、これぞ中庸の、見事に調和のとれたドヴォルザークだと思う。何より交響曲第8番が徹頭徹尾美しい。第2楽章アダージョの風光明媚な大自然への畏怖、また民衆の心をとらえるポピュラーな旋律を持つ舞踊、第3楽章アレグレット・グラツィオーソの愁い、金管の高らかな咆哮が解決の狼煙となる終楽章アレグロ・マ・ノン・タントが実に優雅に響き、懐かしい。

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