バックハウス ベーム指揮ウィーン響 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第4番(1967.4録画)

ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調作品58は、澄明な、闘争とは無縁の、ベートーヴェンの女性的な側面が表に現われた傑作だと思う。何よりピアノ独奏で始まる第1楽章アレグロ・モデラートは、方法が画期的そのであり、主題もまた極めて美しい逸品だ。

冒頭の主題は、毎日弾いて理想を追っています。何かつかんだような気がしても、指揮者が違う振り方で始めると、理想はどこかに消えてしまいます。心を落ち着けて、つかんだ感覚をもう一度取り戻し、可能な限り良い演奏に近づけます。だんだん歳をとり、いつか弾けなくなる日が来るでしょう。コンサートに来た聴衆には思い出に残る演奏を聴かせたい。コンサートで弾くたびごとに、私はその責任を感じています。
(1967年のバックハウスのインタヴュー)

作品を縦横に操り、幾度となく舞台にかけてきた晩年のバックハウスにして、この言葉である。天才は、日々の努力の積み重ねの上に成るものなのだということがわかる。ローマは一日にして成らず。

例えば、ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団との、1959年のライヴでの珍事件(?)。曲は異なれど、指揮者との息が合わなければ、あるいは、考え方が異なれば、理想というものはあっという間に水泡と化すというれっきとした証拠の一つだといえまいか。ライヴの瑕という意味で、あれほどの風変わりなトラブルはなかなか出逢うことができないものだが、互いに譲らぬ性格のぶつかり合いだったのか、あるいは指揮者があえて意地悪をしたのか、その理由は今や誰にもわからないものの、バックハウスの上記の言葉に含まれるニュアンスから、作品をものにし、正統に表現することの難しさが手に取るようにわかる。

あるいは、最後の演奏会での、苦痛を伴いながらも、限りなく透明に近い表現を体得した老練の演奏に、すべてが日々のコツコツという努力の賜物であることを想像するも、「いつか弾けなくなる日」は突然来るものなのだと、感慨に耽らざるを得ない。嗚呼、無情。

・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
カール・ベーム指揮ウィーン交響楽団(1967.4.3-9録画)

40年近く前、僕が初めてこの作品を聴いたのは、バックハウス独奏による、シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルの音盤だった。繰り返し、擦り切れるほど聴いたその音楽は、今でも僕の心の中で懐かしく鳴り渡る。
この映像を初めて観たとき、僕はとても感動した。
動くバックハウスを観て、僕は涙が出た。

美しいピアノ独奏で始まる音楽が、ごつごつとしたバックハウスの演奏が、オーケストラがウィーン交響楽団であるとはいえ、最良のコンビであったカール・ベームの指揮で観ることができたのだから、それだけで感無量だったのだ。実際、この演奏は終始枯れつつも生き生きとし、ベートーヴェンの柔の側面を露わにする名演だ。

久しぶりに観て、僕はやっぱり心が動いた。
何て良い音楽なのだろう、また、また何て良い演奏なのだろう。

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