1930年代のブルーノ・ワルター。
欧州に危機が迫るあの時代の哀しい記録は、いずれもが真に迫る。
このあいだに、ふたりの貴重な人間が死の手に奪われた。彼らとの死別以来、私には世界がまえより暗くなったように思われた。オシプ・ガブリロヴィッチが1936年にデトロイトでおそろしい病気のために死に、ウィーンではニーナ・シュピーグラーが長年の病いに屈したのである。増大するヨーロッパの災いもまもなく日々の体験になった。オーストリアでは国家に敵意を抱くナチズムがますます遠慮なく頭をもたげ、ドイツから威嚇のひびきが伝わってきた。イタリアはイギリスによる《制裁》の結果、エチオピア侵攻のあいだドイツに接近していたから、ヒトラーのオーストリア政策に対抗するための援護をムッソリーニから期待することはもはやできなかった。ある晩、『トリスタンとイゾルデ』を上演中の劇場に悪臭ガス爆弾が投げこまれた。個人めあてのものではなかった。というのも、これと同時に、つまり8時半に、ウィーンのすべての劇場とかなりの数の映画館に悪臭ガス爆弾が投げこまれたのである。ブルク劇場では上演をうちきったが、私は妨害したという勝利をナチスに与えたくなかったので、不安を抱いたり憤激したりした多数の聴衆が劇場を去ったにもかかわらず、指揮をつづけた。そして最後まで上演したのであるが、イゾルデやトリスタンはガスを吸いこんだために歌声がしわがれてしまった—イゾルデのごときは、《愛の死》のところを歌声なしにオーケストラだけで演奏しなければならないほどひどかった。さらに私は音楽協会ホールでの或るフィルハーモニー演奏会のまえに、殺すぞという脅迫状まで受けとった。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P426-427
何と壮絶な!
歴史の証言としての貴重な手記のリアリティに息を呑む。
そしてまたワルターは親友オシプの死に際し、慟哭の手紙を書く。
われわれのオシプが目を閉じてから、もう1か月にもなりますが、ぼくの心を動かすものをお伝えする言葉も、いまだ知らずにおります。この無二の人を表わす言葉がなかったように、この喪失を表わす言葉もありません。
彼の心は愛の炎で、いつも燃え上がって輝き、人を温め幸せにしました。そして、人生がぼくにもたらした最上のものを考えるとなれば、ぼくはオシプときみの名をあげます。ただきみたちのわずかなものしか得られず、きみたちに会うこともまれでした。しかし、ぼくはいつも—金持の男が自分の宝を携えているわけにもいかぬように—きみたちのことを思っていましたし、きみたちがいるという幸せを常に感じていたのです。
(1936年10月17日付、クラーラ・ガブリロヴィッチに)
~ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P233
ブルーノ・ワルターという人は真に慈しみを体現した人だろうことが彼の文章を読めばわかる。そしてもちろん、彼が演奏した音楽を聴けばもっとわかる。
ライネッケのカデンツァを使用したK.466におけるワルターのピアノ独奏の可憐さ。
彼の愛するモーツァルトが何と優雅に響くことだろう。
緊迫した欧州情勢の中にあっても音楽をするときのワルターの心構えは悠久だ。
第1楽章アレグロ、管弦楽の決然たる導入部は指揮者の覚悟の表れか、それとも迫り来る危機への不安の顕現か、モーツァルト音楽が何と厳しく歌われるのだろう。対するピアノ独奏は平和を希求するワルターの慈悲だ。
続く第2楽章ロマンツェの喜びの躍動は、愛するウィーンへの告別の歌なのかどうなのか、何だかとっても悲しい。それほどにピアノ独奏には愛が刻まれる。そして、終楽章ロンドの切羽詰まった表情が音楽に一層の迫真をもたらすのである。
ワルター&ウィーン・フィルのモーツァルトK.466を聴いて思ふ