
かつて見たことも、聞いたこともない、とらえがたい世界をかたちにしようとする力はいよいよ強まる。すると世界は手にとるようにありありと体験され、このうえなく鮮やかにとらえられる。これほどの力を行使する喜びはユーモアへと転じる。人生のいかなる苦しみも、それと戯れる途方もなく大きな快感によって打ち砕かれる。世界という世界の創造主であるブラフマンは、自己の本性についての迷妄を見破り、みずからを笑い飛ばす。回復された無垢は贖われた罪の荊と戯れ、解き放たれた良心は耐え抜かれた苦悩とじゃれあう。
《交響曲イ長調》と《交響曲ヘ長調》、そして完全に聴力を失ったベートーヴェンがこの輝かしい時期に書いた、これらの交響曲と密接な関係にある一連の作品。これほどまでに晴れがましいものを、地上の芸術は創造しえたためしがない。聴衆はいっさいの罪から解き放たれたように感じ、戯れのうちにかいま見るに終わった天国の余韻に浸りながら現象界へと戻ってくる。こうした奇跡にも等しい作品群は、神の啓示に秘められた悔悛と贖罪の最も深い意味を解き明かす。
池上純一訳「ベートーヴェン」(1870)
~ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P152-153
リヒャルト・ワーグナーのベートーヴェン論は実に的を射る。
「解き放たれた良心」こそがすべての現象を受容でき、ベートーヴェンの作品は良心を解き放つだけの力を持つのだとワーグナーは言う。文字通りこの世の天国、いわば仏国世界を創造するほどの奇蹟の作品たち。
バレンボイムのベートーヴェン。
フルトヴェングラーの方法を守った、近代オーケストラ典型の浪漫解釈が、20世紀の最後に(確認のためだろう)あらためて創造されたことに感謝の念を僕は覚える。
ベートーヴェン:
・交響曲第7番イ長調作品92
・交響曲第8番ヘ長調作品93
ダニエル・バレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリン(1999.5-7録音)
もちろんフルトヴェングラーほどの熱狂はない。
形ばかりの似非だという批判も確か昔あった。それでも録音から四半世紀を経、僕はこの全集の意義を今あらためて問いたい。決して懐古趣味ではないバレンボイムの当時の最高のベートーヴェン解釈。
それはやはり第7番と第8番とをセットで聴くことが重要だ。
(前述のとおり、リヒャルト・ワーグナーによって論じられたベートーヴェンという奇蹟、耳疾を超えて創造された奇蹟の連なりだからだ)
愉悦から諧謔へ。
苦悩と戯れる本性、すなわち真我良心の証。
1811年~12年、テプリッツでの温泉療養
経済的に安定期という見立ては、翌年から2年連続で温泉療養に出かけていることも傍証のひとつである。そうあったからこそできた、と言うべきであろう。ベートーヴェンにとってはかなり必死の覚悟であったろうと思われるからである。高額の支出は耳疾改善への最後の望みを託したものだったに違いない。
1811年6月来、体調が優れず、医師の勧めで、8月1日、ヨーロッパ有数の保養地テプリッツに向けてヴィーンを発つ。秘書オリヴァを連れて約50日の温泉療養であったが、しかし現実にはかなり仕事もした。貴族階級の集うリゾート地での長期療養は経済状態の安定あってこそであり、この時期は”パン仕事“のほか、「大作品」からの収入も重なって、「時間差多発出版」も軌道に乗り出し、自信にみなぎる感じが諸処にある。ヴィーン帰着直後から本格化したシンフォニー第7番の音調はその直接的反映のような気がする。
~大崎滋生著「史料で読み解くベートーヴェン」(春秋社)P132
2つの交響曲にある生命力の発露は、まさに生きる望みを確信したベートーヴェンの命の反映だ。そして、バレンボイムの棒は単なる模倣とはいえず、(ある瞬間)とても新鮮に響く。
バレンボイムは喜びに溢れている。
