
当時、僕は正直あまり良い印象を持っていなかった。
フリッチャイ指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲第5番を聴いて思ふ しかし、久しぶりに耳にして思ったことは、病を得た後、不死鳥の如く蘇らんと不屈の精神で自らと闘う指揮者の信念が随所に刻印されており、特にエネルギーが爆発する瞬間のカタルシスは、それこそ自己と闘うベートーヴェンの魂とまるで同期しているということだ。
何だか心から感じ、魂が打ち震える自分が今ある。
やはり音楽(を聴くということ)は、そのときの自分の意識の、心の境地が見事に投影されるものだ。
以上を、与えられた試練により私は心に刻みました。病気を得たものの、またそこから快復することができたことについて、神と運命に感謝しています。このことを生涯忘れまいと思います。なぜならば、このような試練を乗り越えたことは、人生におけるたんなる一場面ではなく、神による勲章のようなものであると信じるからです。私は病床で心の底から願いました。できるものならもう一度生きたい、健康になりたい、と。
(1960年12月5日 いつもあなたの フェレンツ・フリッチャイ)
~フェレンツ・フリッチャイ著/フリードリヒ・ヘルツフェルト編/野口剛夫(訳・編)「伝説の指揮者 フェレンツ・フリッチャイ 自伝・音楽論・讃辞・記録・写真」(アルファベータブックス)P31-32
フリッチャイのこの心からの願いは、無残にも葬り去られたが、それでも残された数多の録音から、いかに彼が素晴らしい創造者であったかがわかる。もし彼により多くの時間が与えられていたならと考えるのは野暮だ。未完に終わったベートーヴェンの交響曲全集は僕たちの想像の輪の中にある。辛うじて間に合った録音を聴いて心を癒そうではないか。
どんな思想家についても、まず何より、彼が創造する「当事者」なのか、批評する側の人なのか、つまり彼がファウストであるかメフィストであるかを見極めなければならない。ただ創造者だけが責任感と愛から語っている。しかし、批評者は「生成するものは全て、滅びるだけの価値しかない!」というモットーから語るのである。
このヴィルヘルム・フルトヴェングラーの言葉は、フェレンツ・フリッチャイの中心的なテーマでもある。
(1962年1月15日 ヴィーンにて エリック・ヴェルバ)
~同上書P88
フルトヴェングラーを敬愛したフリッチャイのベートーヴェンには、特に一旦試練を乗り越え、全身に感謝の念を湛えた晩年のベートーヴェンには、責任感と愛がある。
ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67(1961.9録音)
・交響曲第7番イ長調作品92(1960.10録音)
フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
この直後のカラヤン指揮のものと一線を画する指折りのベートーヴェン。
(間違いなくフルトヴェングラーの衣鉢を継いでいる)
(もちろんそれは両者の比較でなければ、是非を問うているのでもない)
かつて僕が感じた「空回り」などは、おそらく病から快復後の一種の安息の中にある精神状態からの演奏だったからだろうと今は想像できる。それにしても、楽章を経るにつれ、内側から燃え立つようなパッションは、それこそフリッチャイの「もう一度生きたい、健康になりたい」という思いの発露であり、その証がこの演奏なのだと思う。
片や第5は、猛烈な、純粋な名演奏。
