カラヤン指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調作品92(1962.3.13&14録音)

しかし彼のリハーサル法については、高く評価する人が少なくない。カルロス・クライバーやクリストフ・フォン・ドホナーニのような音楽家が、彼の仕事場を時々のぞいていたことはよく知られている。彼は非常に能率的に、曲の冒頭、移行部、完結部を優先的に取りあげ、迷いもなく適切に問題点を指摘し、わずかな説明でそれを排除するというプロフェッショナルな効率の良さで人を納得させるのだ。指揮者は、「リハーサル」という論文でみずから次のように書いている。

音楽の流れの中で、わずかな不正確さや不確かさがあると—たとえばディミヌエンド(少しずつ弱く)の開始がほんの少し遅れているのを正そうとすると、雰囲気はもう乱されてしまう。あるいは、ある箇所を適切に流れるようにするには、指揮者の側に余裕がなさすぎることもある。最終的な結果に至るまで、自己批判的でなければならない。(・・・)さてリハーサルでは、そういった点について語り合い、まず技術的な面から改善に努める。(・・・)技術という縛りから解放されるなら、これから始める仕事は(・・・)時代の変遷の中で、自分自身を認識し、実現する試みである。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P256-257

カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管 ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調作品92(1982.5.3Live)

至極真っ当な見解である。
カラヤンの研ぎ澄まされたセンスと耳があってこその理屈。
いずれにせよ「自己批判的」であるがゆえに、同一曲を幾度も再録音したのだろうと思われる。そして、不得手な作品は決して棒を振ろうとしなかった。

1960年代の、カラヤンがDGに録音したベートーヴェンの交響曲全集は実に素晴らしい。僕はアナログ盤とCDの両方で揃えているが、ともかく音楽の作りが一分の隙もなく、妙な人口臭もなく、速めのテンポで颯爽と、しかし味わい深く(中庸に)奏でられる様子は、当時のベルリン・フィルの力量の凄さを物語る。音楽的であり、かつ技術的にも完璧とあれば言うことなしだ。

・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1962.3.13&14録音)

ベルリンはイエス・キリスト教会でのセッション録音。
単なる外面だけを磨いた腑抜けの音楽ではなく、音楽的にも深く、いみじくもワーグナーが唱えた「舞踏の聖化」を体現する名演奏。

そして(《イ長調交響曲》の終楽章では)ハンガリー農民の舞曲によって森羅万象に歌いかける。それにあわせて自然が踊り出すのを見た者がいたとすれば、自分は今、途方もなく巨大な渦から新しい惑星が誕生する現場を目撃しているのだと確信したに違いない。
だがベートーヴェンのねらいは、無垢なる存在のそもそもの原型、すなわち彼の信じてやまぬ「善なる人間」の理想像を発見し、「神は愛なり」という信条とめあわすことにあった。すでに《英雄交響曲》において、ベートーヴェンはこの路線を歩みはじめたといってよいだろう。

(池上純一訳「ベートーヴェン」(1870))
~ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P160

安寧のベートーヴェン。
ワーグナーの言う「善なる人間」の理想像の音化ともいえる、「自然が踊り出す」ようなベートーヴェン。
一切の無理なく、「森羅万象に歌いかける」イ長調交響曲。

チェリビダッケのジョーク。

今日では音楽を演奏している指揮者を一人も知りません・・・クーベリックだけじゃないでしょうか、なんとかものになりそうなのは。サヴァリッシュは大学学長。音楽家ではありません、メッゾ・フォルテの人。イタリアでは長距離のエキスパートをメッゾ・フォルテと呼びます。それで、カラヤンは? 大衆を夢中にさせます。コカ・コーラもね。
~クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P188-189

何という言い草。
(どれもこれも愛情の裏返しなのかもしれない)

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください。

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む