
2020年のベートーヴェン生誕250周年に際してダニエル・バレンボイムが語った言葉に次のようなものがある。
ベートーヴェンは狂える巨人のように型にはめられがちだが、彼の音楽の中で最も素晴らしい瞬間はドルチェ(甘美に、優しく)の瞬間、つまり静かに内省する表現の瞬間だ。なぜなら、それらは激しい闘争や苦悩のコントラストとして描かれるからこそ、よりいっそう際立つのだ。
人は外面、外見だけを頼りに物事を決めてしまうもの(その傾向がある)。
しかし、本質たる心はどうだったのか?
目に見えない心の部分を云々するのは難しいのだが、ベートーヴェンは間違いなく、智慧と慈悲、そして勇気をもって音楽を創造した人だった。
特に、ベートーヴェンの音楽を人生の支えとしてきたバレンボイムにとって交響曲第9番の存在は大きいようだ。ここにこそ最晩年の、ベートーヴェンが至った境地が、双生児たる「ミサ・ソレムニス」と同様の視点で語られているのである。
その心は、皆大歓喜。
ベートーヴェンの音楽は、人間に力を与えてくれる。人間には『良い状態はずっと続いてほしい、悪い状態は決して去らないだろう』と思い込んでしまう弱さがあるが、ベートーヴェンの音楽は、そうした人間の精神的な弱さと闘い、その先へと考える強さを私に与えてくれる。
あらゆる記録から見て、ベートーヴェンは勇敢な人物だった。そして『勇敢さ』こそ、第9交響曲を演奏するだけでなく、理解するためにも不可欠な資質だと私は考えている。
というのだ。
こちらは、2024年5月、初演200周年のタイミングでニューヨーク・タイムズに寄稿した文章の中で語られていることだが、ベートーヴェンの音楽の本質を見事に言い当てているもので、近年、パーキンソン病を患う自身の状況と重ね合わせているだろうことが推測でき、それゆえの真実味が伝わってくる。
20世紀末に一気に録音された、シュターツカペレ・ベルリンとの全集から。
どこでも語られるのは、前時代的、古色蒼然としたいぶし銀の味わいということ。
フルトヴェングラーの模倣と揶揄されるが、真の意味で模倣などできまい。
(「似て非なるもの」とも言われていたように記憶するが、それすらおかしな表現だと思う)
細かいフレージングなど、どこをどう切り取ってもフルトヴェングラーとは(模倣どころか)まったく異なる、バレンボイムならではの表現。
僕自身はとても素晴らしい演奏だと思う。
(しかし、後年の、ウエスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団とのより優れた演奏から判断すると、ある意味過渡期の演奏だろう)

