カラヤン指揮フィルハーモニア管のベートーヴェン交響曲全集(1951-55録音)を聴いて思ふ

beethoven_karajan_po1950260トスカニーニの激情を髣髴とさせる壮絶なるエネルギーを内に燃やし、表面は実にソフィスティケートされた都会的センスを纏う。かつてこの人を揶揄するように語られた「スポーツカーの如し」という異名は、単なる「格好」だけをとらえたものでなく、馬力やトルクを含めた世界に2つとない真のスーパーカーを指して言われたことだったのかもしれない。
カラヤンが1950年代にフィルハーモニア管弦楽団と録音したベートーヴェン全集には、カラヤンがいわゆる「帝王」になる前の、実力と謙虚さを兼ね備えていた、嘘偽りのない最高の真実(瞬間)が刻まれる。おそらくここではウォルター・レッグのプロデュース力がものをいっているのだろう、隙間を埋める「序曲」ほか、楽聖の9つの偉大な交響曲が、熱狂と安息の見事なバランスによって奏でられ、また同時に主観と客観との素晴らしい中庸によって語られ、その様相に終始息を飲む。
60余年を経た今も、いや、60余年を経た今だからこそあえて手に採るべきベートーヴェン全集だと僕は思う。

例えば、フルトヴェングラーがムジークフェラインザールで「エロイカ」交響曲を録音していた同時期、カラヤンはロンドンで同曲を録音。颯爽たるテンポの、それでいて古き良きヨーロッパの伝統、すなわち決して(現代風)インターナショナルではない「ローカルな(とでもいえばいいのかどうなのか?)響き」を持つ、あまりに人間らしくエネルギッシュな心に沁みる交響曲第3番に久しぶりに感動した。第3楽章スケルツォ途中、おそらくSPからの復刻の際についたであろう音揺れが明らかだが、それすら歴史的録音の崇高なる産物として受容できるのだ。デニス・ブレインのホルンの咆哮にも感涙。
続いて、オイゲン・ヨッフムがイエス・キリスト教会でベルリン・フィルと「田園」交響曲を録音していたその同じ日にロンドンのキングズウェイ・ホールで録音された交響曲第5番。これは40年近く前、僕が初めて手にしたクラシック音楽のレコードだが、当時の記憶がまざまざと蘇る。いや、おそらくその時には感じられなかった別種の感動がここにはある。何という自然体でありながら、勢いのある前のめりの音楽であることか。

ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21(1953.11.21録音)
・交響曲第2番ニ長調作品36(1953.11.12, 13&23録音)
・「レオノーレ」序曲第3番作品72a(1953.7.13-14録音)
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1952.11.22録音)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1955.5.20録音)
・交響曲第4番変ロ長調作品60(1953.6.13, 16&19録音)
・交響曲第5番ハ短調作品67(1954.11.9-10録音)
・「コリオラン」序曲作品62(1953.6.20&7.15録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1953.7.9-10録音)
・交響曲第7番イ長調作品92(1951.11.28-30録音)
・「エグモント」序曲作品84(1953.6.20&7.15録音)
・交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」(1955.7.24-29録音)
・交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」(ステレオ)(1955.7.24-29録音)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
エルンスト・ヘフリガー(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
ウィーン楽友協会合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団

しかし何より僕の心をとらえて離さないのはベートーヴェンの最高傑作「田園」交響曲。
それこそトスカニーニの芸術とフルトヴェングラーのそれとが統合されたような、まさに当時のカラヤンが目指そうとしていた至高の芸術がこの1曲に刻印される。理想的テンポで突き進むこの自然讃歌は、やはり終楽章コーダの祈りにおいて最高の瞬間を迎えるが、ここでのカラヤンの演奏は思いのほか哀愁に満ち、自死前のケーゲルが来日公演で見せたあの仄暗いそれと同質の素晴らしさを僕は感じる。
そして、イ長調交響曲の感極まる愉悦において、カラヤンがベートーヴェンを心底尊敬し、音楽を心から愛して止まないことが手にとるようにわかる。

ちなみに、本セットの白眉は何と言っても初めて陽の目を見たステレオ・マスターテープによる第9交響曲だろう。颯爽と紡がれる第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレの聡明な美しさは深遠で哲学的なフルトヴェングラーのそれとは正反対の解釈であるが、ベートーヴェン自身が”Es muss sein!”(かくあるべし!)と叫ぶかのような確信に満ちた響きをもつ。そして、終楽章プレストを経て、エーデルマンが「歓喜の主題」を高らかに歌うときの恍惚と、それに応える合唱の大らかさに、やはりフルトヴェングラーにはないカラヤン独自のアポロン的世界の現出を垣間見る。

ところで、元々のモノラル盤とステレオ盤とを比較した時、僕の耳ではオリジナルのモノラル録音に軍配が上がる。音の柔らかさと自然さに優れているのである。
この全集を聴くと、確かにめきめきと頭角を表わしたカラヤンに嫉妬心を起こし、恐怖すら抱いたフルトヴェングラーの気持ちはわからなくもない。才能のない指揮者ならばフルトヴェングラーは目もくれなかっただろうから。

 

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3 Comments

畑山千恵子

フルトヴェングラーは相当、カラヤンが面白くなかったようです。この2人のことについて、かなりまともな内容の本があるといいですね。中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー」は、所詮マニアの自慢話程度でしかありません。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
中川氏のものは未読ですが、フルトヴェングラーとカラヤンの真実というのは、あればぜひ読んでみたいものです。

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