カラヤン指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集(1961-62録音)を聴いて思ふ

beethoven_nine_symphonies_karajan_1960s241作品の解釈というのは本当に様々。
一方、聴き手の感性も多種多様。
また、場所が変われば聴き方も変わり、時代が変われば捉え方も変わる。
世界に存在するものはすべて意味があり、意義があるのだとあらためて思った。

フルトヴェングラーをして嫉妬させるほどの能力のあったカラヤンのベートーヴェンを聴いて、かつてあれほどに毛嫌いしていた彼の音楽が、酷暑砂漠の中で出会ったオアシス、清流の如く、身にも心にも沁みた。やはり先入観でものに触れてはだめだ。もちろん「好き嫌い」というのは人間である以上あって当然。しかしながら、そういう嗜好を超えて彼のベートーヴェンはこれまで存在しており、今後も存在するのだろうと気がついた。
例えば、「エロイカ」第1楽章アレグロ・コン・ブリオのコーダにおける精密な弦楽器群の調べの上に滔々とかつ朗々と歌われるホルンの咆哮は、稀にみる愉悦に溢れており、いかにカラヤンが能天気であったか、否、楽天的な人であったかがわかるくらい陽のベートーヴェンの創造だといえる。また、終楽章コーダ直前の音楽の弾ける様の煌めきは、いかにカラヤンが現実的な直感を秘めた人であったかを示す。

確かにカラヤンのベートーヴェンに「精神性」などというものはない。第2番ニ長調主部アレグロ・コン・ブリオの第1楽章に溢れる前進性は現実そのものだ。同時期の「ハイリゲンシュタットの遺書」が決して「遺書」などではないことがカラヤンのこの演奏からわかるというもの。第2楽章ラルゲットの青春の瑞々しさ溢れる夢想。何という洗練の極み。
そして、第4番変ロ長調アレグロ・ヴィヴァーチェの理想的なテンポと間の良さ。第2楽章アダージョの、カラヤンならではの磨き抜かれたその外面に思わずうなる。終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポも中庸の響きを呈しており、その音楽を知るにはうってつけ。
さらには、第7番イ長調第1楽章ポコ・ソステヌート―ヴィヴァーチェの水飛沫のような勢いと、いかにも表面的でありながら表面を見事に練磨された第2楽章アレグレットの優美さに感心。

しかし何より1960年代の全集の白眉は交響曲第9番だ。例えば、終楽章「歓喜の歌」における、”vor Gott”のフェルマータはことによるとフルトヴェングラー以上か?ある意味効果を狙った、とってつけたような違和感がなくもないが、それでも4人の独唱者と合唱のレベルは大変に素晴らしく、ベルリン・フィルの機能美も他を冠絶する。

ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21(1961.12録音)
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1962.11録音)
・交響曲第2番ニ長調作品36(1961.12&1962.1録音)
・交響曲第4番変ロ長調作品60(1962.11録音)
・交響曲第5番ハ短調作品67(1962.3録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1962.2録音)
・交響曲第7番イ長調作品92(1962.3録音)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1962.1録音)
・交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」(1962.11録音)
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)
ヒルデ・レッセル=マイダン(コントラルト)
ワルデマール・クメント(テノール)
ワルター・ベリー(バリトン)
ウィーン合唱協会
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ところで、初出アナログ・セット(日本盤)解説書のハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミットによるカラヤン評が興味深い。

カラヤンは、音の完璧さとリズムの正確さを目標にする指揮者のひとりである。かれは、そのすばらしく正確な耳ときわめて合理的な練習法により、現代最高のオーケストラ訓練者となっている。ベートーヴェンに対する時、またたとえばブルックナーのロマン派作品に対する時のかれの態度は、フルトヴェングラーのそれとはまるでちがう。カラヤンにとっては、透明感とぜいをつくした色彩がなにより大切なものとなる。しかし、かれはそれと同時に、そのたぐいまれな音感により、ベートーヴェンの交響曲に織り込まれている微細な部分をも、まるで魔法のように表現し、われわれに新たな発見に接するような思いをさせてくれるのである。
~初出アナログ盤セットTLI1021/28付録解説書より

音の完璧さとリズムの正確さ、そして透明感とぜいをつくした色彩。カラヤンは自身の才能に酔い、あくまで自身の内側にのみ意識を向け、自分がどのように見られるのかだけを気にしていたのであろうか。そのナルシスティックな音楽は、聴衆をも魅了した。
ちなみに、かつてベルリン・フィルに在籍したティンパニ奏者ヴェルナー・テーリヒェンの回想には次のようにある。

カラヤンは自分の内面を見詰め、内面の声に耳を傾けていたのだろう。だが、私たちは彼との間に遠いへだたりを感じ、置き去りにされたと思った。オーケストラの楽員にとって指揮者との視線による接触は重要なコミュニケーションの手段なのだから。
ヴェルナー・テーリヒェン著/高辻知義訳「フルトヴェングラーかカラヤンか」(音楽之友社)P45

カラヤンは現代的であり、彼の発言はすべて抑制がきき、考え抜かれたものだった。演奏解釈に責任をもつ人間として彼は自身に対して主観的な解釈や疑わしいと見られる自由行動を許さなかった。
~同上書P69

なるほど。9つの交響曲を立て続けに聴いてもまったく疲れないのが良くも悪くもカラヤンの全集の利点。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

カラヤンも再評価すべき時期に来ています。功罪両面あれど、冷静に見るべき点がかなりあると見ていますね。

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