シュタルケルのバッハ&コダーイ(1957録音)を聴いて思ふ

bach_kodaly_starker_1957186この悲哀に溢れる音調は、明らかにマリア=バルバラへの追悼を意図したものだろうと想像するのだが、それにしても苦悩こそが芸術的境地を一層高める要素なのだとあらためて思った。芸術はまさに負の美学なのである。

組曲第5番ハ短調を聴くと、イングマール・ベルイマン監督の傑作「叫びとささやき」をつい思い出す。2人の姉妹、カーリンとマリーアが言い争う様を、第5組曲のサラバンドをバックに、言葉なくして表現したひとコマ。あそこはこの映画のクライマックスの一つでもある。

しかしながら、バッハのこの音楽には死というものに直面する苦しみを超え、生への謳歌が垣間見える。そのことをベルイマンは直感的に知っていたのかどうなのか、それは最終シーンで語られるアングネスの過去を回想しての言葉に結び付く。

9月3日水曜日、すっかり秋の気配だが、おだやかでよい日和だ。姉のカーリンと妹のマリーアが会いに来た。昔のように皆で一緒にいるのはすてきだ。そろって庭を散歩し、お喋りを楽しみ、子供時代以来そのままになっていたブランコに乗ったりした。痛みはまったくなった。世界中で私が一番好きな人は、私のまわりに皆いてくれた。私は皆の声を聞き、皆の身体を肌で感じ、手の温かさを確かめた。私はすばやくあたりを見まわしてこう思った―とにかくこれが幸福というものだ。これ以上に何を望めよう。今、この短い時間に、完全さを私は味わったのだ。そして私は、こんなにも多くのものを与えてくれた人生に、心から感謝した。
三木宮彦著「ベルイマンを読む」(フィルムアート社)P254

アングネスが人生の最後に「足るを知る」という悟りを得た瞬間。これこそバッハの無伴奏組曲が訴える真意であることをベルイマンは(無意識下で)知ったのだろう。

J.S.バッハ:
・無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調BWV1011(1957.8.29-30&10.3録音)
・無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調BWV1012(1959.1.31&2.1録音)
コダーイ:
・無伴奏チェロ・ソナタ作品8(1957.10.4録音)
ヤーノシュ・シュタルケル(チェロ)

幾種もあるシュタルケルのバッハの最初の録音。かつてのEMI録音の音質は真に色気に乏しい。いかにもデッドな響きで、興醒め甚だしいのだが、しかし一方で、音楽の細部までもが明確に聴こえ、それゆえバッハの本意、心情を推し量ることが可能。
第5組曲の涙を呼ぶあまりに直接的な音楽。そして、愉悦的でありながらどこか寂しさを湛える第6組曲。若きシュタルケルの弓さばきが冴える。

とはいえ、バッハを規範にしたコダーイの名曲こそが白眉。さすがに2度目のフィリップス盤の後塵を拝するものの、これほどに険しく実直な演奏はシュタルケルならでは。
第1楽章アレグロ・マエストーソ・マ・アパッシオナートの深みのある情緒性に感動。第2楽章アダージョ(コン・グランデスプレッシオーネ)は、それこそバッハのサラバンドの焼写しのよう。これほどに哀感を帯びる音楽が他にあろうか。そして、終楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェの民俗的舞踏に、作曲者と演奏者の祖国への愛を感じずにいられない。

ヤーノシュ・シュタルケルの2周忌に。

 

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