フリッチャイ指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲第5番を聴いて思ふ

beethoven_symphonies_fricsay057真冬の冷たい雨が過ぎ去り、空気は透明で清々しい。星々が煌々と映える。
死の匂いの一切ない、血のたぎるベートーヴェン。しかし、表面上はあくまでクールを装う。

フェレンツ・フリッチャイがベルリン・フィルと死の1年数ヶ月前に録音した第5交響曲は、堅牢な構成の中、真に雄渾な響きに溢れる。それでいて第2楽章アンダンテ・コン・モートに聴こえるのはあまりに柔和で静かな、それこそ死の淵から今際をのぞき込むような崇高な音楽であった。
本人が自身の最期を意識していたのかどうか、それはわからない。しかしながらそこには、それこそ余命あと幾何もないと悟った人間が最後に至る境地のような透き通った世界が現出するのである。

この指揮者のベートーヴェン全集が結果的に完成ならなかったことは痛恨事だ。何より愛すべき最高傑作「田園」交響曲が欠けているのが惜しい。楽聖青春の心意気を表わす第2交響曲の不在も然り。さらには、シューマンが「2人の北欧神話の巨人の間にはさまれたギリシアの乙女」と譬えた第4交響曲が録音されなかったことも・・・。神々しい交響曲第5番を耳にするにつけすべてが実に残念でならない。

悠揚たる理想的テンポで、一切の踏み外しなく、音楽は冒頭の有名な4つのモティーフをきっかけに終楽章最後の和音が鳴り切るまで前進する。フィナーレの金管群の強烈な伸びのある有機的な音(コーダの激烈でありながら意味深い音!)に僕は思わず卒倒した。もはや言葉を失うほど・・・。

不滅だ。天才だ。これほどに凝縮された美の世界はベートーヴェンでも指折りのもので、古今東西あらゆる音楽家の全作品を並べてみても比肩するものはない。
そしてその一世一代の傑作をフリッチャイの棒が渾身の力で音化する様は他のどんな指揮者にもない究極の自然体(脱力)の絵姿のようなのだ。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67「運命」(1961.9録音)
・交響曲第7番イ長調作品92(1960.10録音)
フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

一方のイ長調交響曲は、意外に大人しい。というか何だか空回りしている印象で正直感動が薄い。外側の激烈さに比して内面がまったくついて来ていないような・・・。
とはいえ、第2楽章アレグレットの随所に現れるティンパニの重厚な決めの音は意味深く、ハッとさせられる。おそらく環境の影響、あるいは体調の影響により出来不出来の振れ幅の大きい指揮者だったのだろう。

この人がもし人並みに長生きしていたら20世紀の演奏史はまた違ったものになっていたのかもしれない。

 

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