「エグモント」序曲序奏冒頭からただならぬ雰囲気に包まれる。緩やかに、幽玄な響きをもって歌われるその音楽は、その夜のコンサートの有様を見事に伝える。まさか指揮者がこの１年後に自ら命を絶つことを決めていたわけではなかろうが、ある意味死臭の漂う、聴いていて居ても立ってもいられぬ、地に足の着かない（？）不安定さを抱えた音楽が終始展開される。その不安定さが結果として魅力になるのだが、それにしても一世一代の、後にも先にもこれほど「暗い」ベートーヴェンを僕は聴いたことがなかった。祝祭どころか、まもなく目の当たりにする東西ドイツの壁の崩壊と、一つの大きな社会主義国家の消滅を暗示するかのような暗澹たる厳しさが、終始一貫して刷り込まれた演奏なのだから息が詰まることこの上なかった。
緩徐楽章に僕は引きずられる。
交響曲第5番ハ短調作品67。第2楽章アンダンテ・コン・モートは、灯火のない、まるで中世の欧州の黄昏時の街並みの様子を髣髴とさせる音景色。そこには、やるせない、自分の意思ではどうにもならなくなった老年の巨匠の諦念が見事に刷り込まれ、ベートーヴェンの雄渾の音楽が、ほとんど沈潜するように、闇夜を彷徨うのである。もちろん交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」第2楽章「小川のほとりの情景」についても、同様に、まるで病人が散策するかのように音楽は移ろう。
ベートーヴェン：
・「エグモント」序曲作品84
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団（1989.10.18Live）
特筆すべきは、終楽章「牧人の歌—嵐の後の喜ばしい感謝に満ちた気分」における天にも昇るようなクライマックスの高揚感の後の、まるで精神病患者が突如として落ち込み、塞ぎ込むかのように奏でられる暗黒の（？）コーダの身震いするような装いに言葉がない。これは感謝の念どころか恨み節ともとれる音だが、しかし、そこにはもはや死を選択せんとした指揮者の、純白の、最後の足搔きがあるように思われる。なんと苦しい、なんと悲しい「田園」交響曲であることか。
幻聴は、幻影をも連れて来た。或は幻聴の前触れが無しにひとりでも来た。
それは一つは極く微細な、しかし極く明瞭な市街である。それの一部分である。ミニアチュアの大きさと細かさとで、仰臥している彼の目の前へ、ちょうど鼻の上あたりへ、そのミニアチュアの街が築かれて、ありありと浮かび出るのであった。それは現実には無いような立派な街なので、けれども、彼はそれを未だ見たことはないけれども、東京の何処かにこれと全く同じ場所がきっとありそうに想像され、信じられた。それは灯のある夜景であった。
～佐藤春夫「田園の憂鬱」（新潮文庫）P85
しかし、ケーゲルの意思はそんなものではなかった。
休憩後の、激烈なるハ短調交響曲の渾身と、アンコールに奏された、死の装束を纏ったようなバッハのアリアの哀感にこの夜のサントリーホールに居合わせた聴衆に僕は嫉妬を覚えた。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオから、音楽は縦横に躍る。アクセルやブレーキが多用されつつも、不自然さを失わないケーゲルの魔法についうっとりしてしまう。暗いが、しかし安息の第2楽章アンダンテ・コン・モートを経て、ゆったりと開始される第3楽章スケルツォの深い呼吸に満たされ、終楽章アレグロの堂々たる威容に得も言われぬ感動に浸る。音楽は間延びするギリギリのところまで追い込まれ、テンポの伸縮から音の強弱に至るまで、指揮者の意思が見事に貫通され、しかも音楽は生き生きとうねるのだから堪らない。
私の夢想は、私達の上に起ったさまざまな事物の上を、或る時は迅速に過ぎ、或る時はじっと一ところに停滞し、いつまでもいつまでも躊躇っているように見えた。私は節子から遠くに離れてはいたが、その間絶えず彼女に話しかけ、そして彼女の答えるのを聞いた。そういう私達についての物語は、生そのもののように、果てしがないように思われた。そうしてその物語はいつのまにかそれ自身の力でもって生きはじめ、私に構わず勝手に展開し出しながら、ともすれば一ところに停滞しがちな私を其処に取り残したまま、その物語自身があたかもそういう結果を欲しでもするかのように、病める女主人公の物悲しい死を作為しだしていた。
～堀辰雄「風立ちぬ・美しい村」（新潮文庫）P129
バッハのアリアの、この上ない幸福感とあまりの寂寥感に僕は言葉を失う。
