ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン ブルックナー 交響曲第5番(1878稿)(1980.2&3録音)

40年前、購入したアナログ・レコードの帯には次のようにある。

ここに極まる気宇壮大な巨匠ヨッフムの芸術。

当時、僕はこの傑作の「意味」がよくわからなかった。特に、クライマックスを形成する終楽章がまったく理解できなかった。そういうわけで、5,000円という大枚を叩いて購入したレコードもだいぶ長い間埃をかぶっていたように思う。残念ながらブルックナーの交響曲第5番は、高校生にとっては随分重荷だった。音楽とはそんなものだ。中でも、傑作と称される音楽は得てして難しい。

とはいえ、僕にとっては思い出の音盤。
長らく埃をかぶった後、十数年を経て、ついに僕はこの音盤を制覇した。名盤といわれるものを聴き、朝比奈御大の実演に何度も触れ、僕はようやくわかったのだ。

「第5」は第1、第2、第3楽章が終楽章からみればほとんど大規模に構想された準備のようなものとしての働きしかしないように構成されている。その際、第3楽章のスケルツォにはさらにある種の弛緩の性格(即ちもっと言うなら、はじめの3つの楽章の中では形式面で下降しているという性格)が与えられている。解釈はこのような意味上の重みを考慮に入れねばならない。即ちそれはフィナーレとその終結にむけてあらゆるものを構想しなければならない。最初の3つの楽章がいかに重要性をもつとしても、それは終結のために常に倹約を続け、貯えを残しておかねばならない。
(オイゲン・ヨッフム/渡辺裕訳「第5交響曲の解釈について」)
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P228-229

実にヨッフムの言う通りだと思う。前3楽章も決して軽いものではないが(いや、壮大な、宇宙的規模の終楽章に収斂されるべきすべてが前3楽章に包含されるのだから軽いわけがない)、心が躍るばかりか、畏怖さえ感じるフィナーレの、特に欣喜雀躍するコーダの壮麗なコラールがとにかく身に、そして心に、魂に染み入るのである(幾度耳にしてもその体験は変わることがない)。

・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(ノヴァーク版1978年稿)
オイゲン・ヨッフム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1980.2&3録音)

ヨッフムの指揮は、確かに小ぶりな(多少せかせかした印象は拭えない)、スケールの決して大きくない再現ではあるが、しかし、ここにはブルックナー指揮者としてのヨッフムのプライドが詰まっており、老大家の真剣勝負というか、一世一代のパフォーマンスを支える気力に溢れている(要は、若々しい生気に満ちているのだ)。何より展開部の巨大な二重フーガを作り出して行く様子に、宇宙の生成もこういうものだったのだろうと想像させるほどのエネルギーを感じ、じっくり聴いてあらためてときめくのである(尤もブルックナーの音楽そのものがよくできているのだけれど)。月並みな言葉しか並べられないけれど、やっぱりこの音盤は名盤の一つだと僕は思う。

人間の住んでいない
無言の谷が
昔はほほえんだ。
人々は優しく光る星を頼りに
夜毎に、彼等の淡青の塔から
花の群を見張しようと
戦の庭に出かけた。
花の真中に日もすがら
赤い太陽がものうげに横たわる。
いまは訪客は悉く
悲しい谷間の不安を告白するであろう。

「不安の谷間」
阿部保訳「ポー詩集」(新潮文庫)P41

エドガー・アラン・ポーの詩についても昔はよくわからなかった。僕はなんだかアントン・ブルックナーのことを想像した。

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