ラトル指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 交響曲第5番(2000.12Live)ほか

外見はとても男性的かつ冷静でアグレッシヴに聴こえる。しかし、内側はとても温かく柔らかいベートーヴェンの女性的な側面が滲み出る演奏だ。引き締まったテンポで、音楽は前進的。ピリオド的手法を取り入れつつも、あくまで重心を低く、同時に音の厚みを湛えて音楽をする喜びに満ちる。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオの、あの有名な主題が、何と先鋭的に響くことか。

それにしてもこれほど緊張感のある、一部の隙もない音楽の構造物が、古今東西広しと言えど、他にあろうか。傑作中の傑作だと僕は思う。

この“純粋ペア”の2シンフォニーはあらゆる点で対照的である。もっともそれを逆手にとって共通項を探すのも興味深いが、それは当然、ひとりの人格から生み出されたものだからあって当たり前である。そうした根底レヴェルにおける同一性の上層部分を観察すると、補完し合う対照的な2創造物であることは火を見るよりも明らかである。4楽章対5楽章、ハ短調対ヘ長調、音と音との関係のみで成り立つ絶対性対標題(プログラム)のある表象性、創造者の自我対感情の描写、内面対外面、どちらも作者ベートーヴェンの2つの側面を代って表している。そのように仕組むことは創作の大前提として明確に意識され、その結果がこの2作品である、と考えるべきであろう。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P689

なぜベートーヴェンは、同時に性格のまったく異なる作品を生み出したのか?対(つい)が対(つがい)であること、そして、この世のすべてが補完し合う関係に在ることをベートーヴェンは間違いなく知っていたのだと思う。

しかしベートーヴェンの全9曲のシンフォニーにあって第3番、第6番、第9番は、その濃淡に差はあるが、実はシンフォニーという曲種を絶対音楽視する前に大きく立ちはだかる存在なのである。
そしてベートーヴェンは、この第5番と第6番がその素性において、すなわちシンフォニーのあり方として、対極にあることを意識していたからこそ、その両極端を提示し、ひとつのセットとした。

~同上書P691

交響曲第5番は、そもそもその1曲では成り立たず、第6番「田園」と常に対で考えなければいけないことを僕たちは知らねばならないのだ。

サイモン・ラトルが、ウィーン・フィルとの特別演奏会(ムジークフェラインザール)で披露した第5交響曲。

・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67(2000.12.1-3Live)
・ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77(2000.12.18-20録音)
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
サー・サイモン・ラトル指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

陰から陽を引き出す力。終楽章アレグロの解放が特に素晴らしいと僕は思う。

一方の、チョン・キョンファを独奏に迎えてのブラームス。
僕の中では、彼女のブラームスの最高峰は、1989年にサントリーホールで聴いた、来日公演のもの(秋山和慶指揮NHK交響楽団)。あのときは、ベートーヴェンの協奏曲と合わせ、これまで聴いたすべてのコンサートの中でも一、二を争う(身も心も震える)感動だった。
残念ながら、本演奏はスタジオ録音ということもあろうか、チョン・キョンファのまるで憑依したかのような壮絶な解釈が随分薄れ、どちらかというと(整理整頓された)大人しいもの。聴衆を前にしての若きチョンの演奏は、真に言語を絶するものだった。

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