名著「悲劇の誕生」(フリードリヒ・ニーチェ著)。
僕は、少年の時、ここでアポロンとディオニュソスを対比して芸術の、音楽の神髄を喝破する哲学者の本懐を知った。おそらくあの当時は、表面的なところしか理解できていなかったと思うけれど。
観照、美、仮象がアポロン的芸術の領域を画定する。それらは、夢のなかで瞼を閉じながら芸術的創造を営む眼の、浄化された世界である。
~塩屋竹男訳「ニーチェ全集2 悲劇の誕生」(ちくま学芸文庫)P243
芸術はまずもって崇高であらねばならない。そこにニーチェは「滑稽さ」をも要求する。なるほど、ベートーヴェンがメヌエットをスケルツォに置き換えた理由はその辺りにあるのかもしれない。
崇高と滑稽とは、美的仮象の世界を一歩超え出たものである。というのは、この両概念のなかにはともに一つの矛盾が感得されるからである。他面またこれらの概念は、真理とは決して一致しない。これらは真理の被覆であって、この被覆は美よりも透けているが、しかしやはり被覆たることには変わりない。すなわち、われわれはこれらにおいて、美と真理との間の中間世界を持つのである。ディオニュソスとアポロンとの融合が可能となるのは、この世界である。
~同上書P245
仮でもなく、真でもない世界。否、正に今のこの泥沼の世界こそニーチェの言うディオニュソスとアポロンを融合することのできる世界なのだと思う。いわば陰たるディオニュソスは、陽たるアポロンを超えることはできず、逆もまた真なり。
トスカニーニとフルトヴェングラーの「エロイカ」、僕はこの両者の統合にこそ「悲劇の誕生」を見る。
音はいつ音楽となるのか? それはなかんずく、意志の最高の快感状態と不快状態とにおいてである。すなわち歓呼喝采する意志、あるいは恐怖に息も絶えなんばかりの意志の状態においてである。要するに、感情の陶酔、絶叫においてである。絶叫は眼差しに比していかばかりはるかに強力かつ端的であるか!
~同上書P256
陶酔と絶叫の極致こそ音楽の官能を生み出すのだとニーチェは言うのか、どうなのか。
ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1953.12.6録音)
・モーツァルト:交響曲第40番ト短調K.550(1950.3.12録音)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
あまりに乾いた音に、昔は感興が削がれたものだが、今は違う。何と直接的な音であり、これほどのアポロン的世界の顕現が他にあろうかと思うくらい。トスカニーニの「英雄」は終始一貫して熱く、意志的だ。あるいは、モーツァルトのト短調ですら人間ドラマを超えた、理知の表象であり、古典派の枠をはみ出した、魂むき出しの表現だ。
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1952.11.24-25録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
40余年前、夢中になって僕はこの録音を繰り返し聴いた。隅々まで記憶に残る名演奏は、時を経ても決して廃れない。今もって最高の一つだ。ここにはトスカニーニはない潤いがある。おそらくそれは録音のせいだけではないだろう。大自然の流露と連動するかのような静けさと高まりの錯綜、あるいは阿吽の呼吸の妙。録音の古さを超え、真実がここに垣間見える。
かつてあれほど毛嫌いしていたフルトヴェングラーのモーツァルトが何と素晴らしく響くことか。ここにはニーチェの言う「歓呼喝采する意志、あるいは恐怖に息も絶えなんばかりの意志の状態」の双方が相まみえるのである。崇高と滑稽との饗宴。何と神々しいことか。