
オペラ公演にトラブルはつきものだ。
(特にプロダクションのプレミエにおいては)
歌手の調子、オーケストラの出来、もちろん指揮者の具合が公演そのものの良し悪しを大きく左右する。当然、その場に居合わせる聴衆の質も然りだ。
ヴェルディの永遠の若々しさを湛えた晩年の作品が、1983年2月2日、ロリン・マゼールの下、ウィーン国立歌劇場で音楽復興公演としてプレミエを迎えた。ここでも嵐の予兆はあった。決して悲愴感ないこの歌劇の、ふくよかな太鼓腹の騎士役を初めて歌うヴァルター・ベリーが体調不良を訴えていたのだ。カラヤンの「ファルスタッフ」役ジュゼッペ・タッデイが念のため駆けつけ、ボックス席に陣取っていた。
「しかし、ベリーのような歌劇界のサラブレッドはそんなことを許さなかった」と、ウィーンの批評家カール=ハインツ・ロシッツは評した(1983年2月4日「クローネンツァイトゥング」紙)。ベリーは役柄に全身全霊を注ぎ込んだ。最初は自分の声から何を引き出せるのか躊躇いがあったが、その後は力一杯歌った。第1幕を手探りで演じているうちに彼は喜劇の世界にどっぷりと浸かり、プロイセン貴族の奇抜な側面を存分に演じきった。そして、最後の仮面舞踏会では、その任務を全うし、見事な演技へと昇華させた。しかし、これほどまでに好感の持てるサー・ジョン役が演じられたのは久しぶりだ。ベリーは、タッデイのような不機嫌な憂鬱さや邪悪さの潜む陰鬱さを表に出さない。彼の演じるファルスタッフは、若々しく、より大胆で、より滑稽に見えた。彼は依然として冒険に挑戦する勇気を持っているのだ。そして、ベリーはそれを声で見事に表現していた。
レビューは次のように続く。「当初、ロリン・マゼールはウィーン・フィルの演奏家たちをまるで名戦略家のように戦場に送り込まなければならないと考えていた。マゼールのウィーンでの『ファルスタッフ』を、ジョルジオ・ストレーラーとのミラノでの『ファルスタッフ』と比較すると、ここでのヴェルディは、時として一層歯切れが良く、剃刀のような鋭さが感じられた。テンポと音色は徐々に明確になり、アドレナリン全開のセンセーショナルな音も、少しずつ爽快な音楽へと変化していった。アンサンブルは活気に満ち、魅力的でコミカルだった。マゼールは細心の注意を払って管弦楽パートの個性を形作り、フィナーレを華麗なサーカス劇に変えた。聴衆は『ブラヴォー』と叫んだ」。
(アンドレア・ゼーボーム)
変幻自在のマゼールにあって、さすがにプレミエとなると緊張があるのかどうなのか、確かに批評の通り、舞台が徐々に高揚していく様子が感じ取れる。
アリーゴ・ボーイトとの共作は、シェイクスピアの「ヘンリー4世」と「ウィンザーの陽気な女房たち」からの翻案。「ヘンリー4世」においては皇太子と共に追剝を繰り返すファルスタッフの狼藉ぶりが披露されるが、「ファルスタッフ」においてはそういう乱暴者ぶりはいっさい封印されているのがミソ。
マゼール指揮ウィーン国立歌劇場のヴェルディ「ファルスタッフ」(1983.2.2Live)を聴いて思ふ
他人を騙すより自分が騙されるという間抜けな善良者としてのファルスタッフは、まるで聖愚者のようだ。背景はまったく異なるが、ワーグナーにおける聖なる象徴たる「パルジファル」と俗なる象徴のヴェルディの「ファルスタッフ」の相似性は、天人合一の証しを顕す世紀末から後世への贈物のようにも考えられる(あくまで個人的な見解だが)。
まして、晩年のヴェルディがワーグナーの影響下にあることを指摘する向きがあることを考えると、本人たちに意識は当然ないにせよ天の采配によってそういうこともあり得ると思うのである。
この世の中は幻想であり、すべては喜劇。
大団円が素晴らしい。


マゼールの鋭敏な耳と、《春の祭典》すら暗譜で振ってのけるというバトン・テクニックから想像すると、このオペラにしばしば現れる、現代音楽をさえ思い起こさせる音型やフレーズをいかに鮮やかに表出しきっておられる事でしょうか。
まさに、血沸き肉踊る一組では、ございませんでしょうか?
>タカオカタクヤ様
いつもありがとうございます。
>まさに、血沸き肉踊る一組では、ございませんでしょうか?
おっしゃるとおりです。
例えば、第2幕のフォードのアリア「夢か?現か?」のシーンなど、実に切れ味鋭い刺激的な棒で堪りません。
まさに「鮮やか!」です。
https://youtu.be/5R1xLRLkxHc?si=4ovgXJF3zRM5fhhI