昭和の趣

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今聴くと無調時代のシェーンベルクも悪くない。どころか結構好き。耳が肥えるのか、知識が増えることで「感覚」の許容範囲が広まるのか、その辺りは定かでないが、ラサール弦楽四重奏団の演奏する「浄夜」のCDに晩年の弦楽三重奏曲が収められており、久しぶりに取り出して聴いてみて、十分心に響く作品だと感じた。 

人間の持つあらゆる感情から離れ、主観でなくあくまで客観的に空間(宇宙)を捉えようとした抽象画であると考えるならわかりやすかろう。抽象の裏には具体があり、その具体的なものを善悪や良し悪しで判断できないよう曖昧にすることで、すべてを受け容れる「形」になる。何というのか、焦点をずらして、虚心坦懐に耳を澄ませば、その真髄が見えてくるよう。

今年も早くも1ヶ月が過ぎようとしているが、そういえば昨年のちょうど今日から一時的に「独り寝」をスタートしたのだった。「九星氣学」的に東の方に引っ越した方が良いというアドバイスをもらったからだが、その指示が実に細かく、一旦東南方面に2ヶ月間だけ逃げ、その後東に移りなさいということだった。最終的には妻と方位を合わせねばならなかったので、そもそもぴったりの物件を探すのに苦労したが、最小限の出費で思うような部屋が見つかって良かった(エルーデ*サロンがスタートすることになったのは、まさにこの引越しのお陰)。


それで、最初に「独り寝」をしていた部屋は、旧知の不動産屋で紹介いただいたところで、たまたま前の人が出たばかりだし、しかもまだリニューアルを施していないからそういう事情なら大家さんにかけ合ってあげるということで、敷金礼金を免除してもらってお借りした部屋だった。もちろん築数十年は経過しているであろう古アパートで、お世辞にもきれいとはいえない状態だったから一瞬迷ったが、寝るだけだからまぁよかろうと、ともかく布団と照明器具だけ運び入れ、生活を始めたのである。深夜に独りで寝に帰るというのは何とも侘しいものだったが(笑)、無事2ヶ月間を過ごし終えた。今となっては良い思い出なり
(笑)。

そこは、上の階の物音も、隣の部屋の人が歩く音も平気で聴こえるようなおんぼろアパートだったが、古き良き昭和の趣が残っていた。あの雰囲気で、シェーンベルクの十二音音楽など聴けたら実にはまっていたのではないかな・・・。

シェーンベルク:
・浄夜作品4(1899)
ドナルド・マッキネス(ヴィオラ)
ジョナサン・ペギス(チェロ)
ラサール弦楽四重奏団
・弦楽三重奏曲作品45(1946)
ワルター・レヴィン(ヴァイオリン)
ピーター・カムニツァー(ヴィオラ)
リー・ファイザー(チェロ)


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
このラサールのシェーンベルクは発出当時からの愛聴盤です。
ところで、学生時代からの愛読書も、こちらが歳と人生経験を重ねるにごとに、違った、心に深く染みる響きかたをするようになります。
柴田南雄著「続・わたしの名曲・レコード探訪」(昭和61年4月1日 第一刷発行 音楽之友社)より、
http://www.amazon.co.jp/%E7%B6%9A%E3%83%BB%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E5%90%8D%E6%9B%B2%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89%E6%8E%A2%E8%A8%AA-%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%9F%B4%E7%94%B0-%E5%8D%97%E9%9B%84/dp/4276370485/ref=sr_1_4?ie=UTF8&s=books&qid=1296167185&sr=1-4
・・・・・・一応、レコード・ジャーナリズム寄りの角度から見るなら、この二曲のカプリングの斬新さ、巧妙さはたしかに注目に値する。弦楽四重奏曲のレコーディングに、今後このやり方を踏襲するものが出るかも知れない。だが、それはたんに四重奏を外して、六重奏と三重奏を組み合わせた面白さ、ということではない。これらの、ともに傑作である二曲は、シェーンベルクの作風の出発点と到達点を端的に集約し、代表しているからである。
(中略)
 今度のラサールの演奏と、そのジュリアードの演奏で〈弦楽三重奏曲〉を聴きくらべてみると、ジュリアードはいささか問題意識を前面に持ち出し過ぎている、という感じがする。先鋭な角度で作品に迫ろうとする意欲に急で、その実、却って意外と在来の音型やモチーフの表現法に似た奏法や表現法にとらわれていて、隔靴掻痒の感が残る。
 ラサールは巧みに超克したと思う。要するに、シェーンベルクも重篤な心臓疾患の後、ここに至って十二音技法を真に自己表現の語法にまで高め、それをいわば自由な記号体系と見立てて「作曲」したのだと思う。日本語だと「作曲」に限定されるが、composition元来の意味は言うまでもなく「構成」であり、じっさい、この〈弦楽三重奏曲〉は、十二平均律でなくとも、他の音階システムに置き換えても、美しく響くだろう。音響以外の他の感覚媒体への翻案さえ、可能であろう。専一的に伝統的な音楽語法に拠っている〈浄められた夜〉との、このような本質的な対照を鮮やかに描きわけたラサールはさすがである。
 シェーンベルクが1921年の夏、いわゆる十二音技法を見いだした時に、ドイツ音楽の今後の百年がこれで保証された、という意味の述懐をした、と弟子のルーファーは伝えている。近年、そのシェーンベルクの予言は外れた、と憐れむ意見がないでもない。しかし、ラサールの〈弦楽三重奏曲〉のような演奏に接すると、問題はそう簡単ではないように思えて来る。シェーンベルクの音楽観が真に理解され、展開されるのは、おそらく未来のことに属するだろう。・・・・・・(180~182ページ)
また、マーラーの第9交響曲について、
・・・・・・しかし、〈第九〉の第一楽章の書法はじつに興味深いものだ。主題部の三声の対位法で奏き進められていく部分では、ダイナミクスの相違でどれが主声部かは一応はっきりしているが、第二、第三の声部をたんに和声的に意識下できき流すか、それらの副声部をも意識しながら聴くかで、この楽章はまったく異なる相貌を見せる。それは結局、音の表層の流れを追うか、深層までをきき取るかということだ。それにしてもマーラーの書法はじつに大胆で、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンがほぼ同じ音域で別々の旋律を歌ったりする。それぞれの歌は甘美そのものでも、そこに生じる旋律間の優位の争いや不協和音のきしみは、まさに彼の引き裂かれた意識の表現であり、彼の精神の深淵で激しい葛藤の存在するのをわれわれに感じさせる。ともあれ、この楽章全体の書法と管弦楽法には、シェーンベルク学派の無調の楽節におけるそれとの近親性を強く感じる。・・・・・・(93~94ページ)
>人間の持つあらゆる感情から離れ、主観でなくあくまで客観的に空間(宇宙)を捉えようとした抽象画であると考えるならわかりやすかろう。抽象の裏には具体があり、その具体的なものを善悪や良し悪しで判断できないよう曖昧にすることで、すべてを受け容れる「形」になる。何というのか、焦点をずらして、虚心坦懐に耳を澄ませば、その真髄が見えてくるよう。
御意!! 

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雅之

引用部 訂正
× 弦楽四重奏曲のレコーディングに、今後このやり方を踏襲するものが出るかも知れない。
○ 弦楽四重奏団のレコーディングに、今後このやり方を踏襲するものが出るかも知れない。
お詫びします。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
以前もご紹介いただいた柴田南雄氏の書籍は僕も即刻Amazonで仕入れて読みましたが、若い頃にはわからなかったことがすごく理解できるようになっていて面白いものだと思っていました。
ご紹介の箇所も「なるほど!」ですね。
ありがとうございます。

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