『さわり』という鶴田錦史氏の生涯を追ったノンフィクションを読んで以来、ショスタコーヴィチの追究と並行して琵琶や尺八(尺八ではないが、法竹という独特の楽器を操る海童道宗祖の録音については以前から愛聴盤だけど)の音楽についても少しずつ聴き始めている。
昨日、久しぶりにマーラーの第8交響曲を聴き、彼のあの大作が規模的にも内容的にも西洋クラシック音楽のある意味クライマックス地点で、その後のヴェーベルンを筆頭にした極めてミニマルな世界観を表出する戦後すぐの頃のモードが結果的に西洋クラシック音楽の終着点になったのかなとふと考えた。ヴェーベルンのあの緊張感のある極小の音世界が我々に与えるインパクトというのは並大抵でない(もちろん僕がその世界について完璧に理解したわけではないのだけれど)。
一方で、違った意味でミニマルの極限で、間違いなく俳句的世界を体現する武満徹が書いた琵琶と尺八のための音楽が、マーラーのクライマックスとは違った意味での「宇宙」を表すものなのかとも考えた。
外見的には、マーラーのシンフォニーが大宇宙、そして尺八や琵琶の世界が小宇宙に見えるが、そこに拡がる空間は全く逆で、鶴田錦史や横山勝也が生み出す音世界のこれほど深遠で、どこまで行っても終わりのない、彼岸と此岸をつなぐ圧倒的極大世界に身も心も釘付けにされてしまうところがとにかくすごい。僕の30年に及ぶ音楽愛好人生の中でも、この出逢いというのは極めつけのようにも思われる。いわゆる雅楽や邦楽の可能性。このあたりを今後はもっと勉強してみたい、そんなことを想いながら聴いてみた。
和の国の雅な音楽がこれほどまでに人の心に響くとは思ってもいなかった(そういえば、日曜日の午前にNHK-FMで放送される「能楽鑑賞」についても、以前ならその声色がどうにも気持ち悪くて聴いていられなかったのが、最近は音そのものが神妙で幽玄であることに気づき、日曜日のその時間に在宅の時はいつもラジオから自然に流れてくるよう設定してある。深い、真に深い)。
上記のいずれの曲も、日本人の日本人的魂が呼び覚まされるようで何とも不思議。二元論でない「すべてがひとつである」ことを実証するかのような音楽。決して西洋の管弦楽曲に負けることのない威容と迫力、宇宙の根っこにつながるような力強さと限りなく無に近い静けさよ。
ひとつの実験。ショスタコーヴィチの第4交響曲と並べて聴いてみると面白い。まったく違った語法でありながら、共通する「世界観」がこれら2つに見ることができる。2人の作曲家がほぼ同時代に生き、音楽を世の中に問うているという意味ではもちろん共通性はあるのだが、音楽の内面に一貫するのは陰も陽もあわせ飲むバランス。難しく考えずにただひたすら感じることを要求する音楽たち。あくまで僕の私見だが。
国と国、人と人、音楽と音楽、思わぬところですべてがつながってゆく。
「時と場所は違えども」といっても、同じ地球上でのこと、そして時代は宇宙数百億という無限の時間から考えたらクラシック音楽の歴史の2,3百年なんていうのは一瞬の出来事。
すべてはつながってゆく。
こんばんは。
そして、武満徹が生前最も好きだったクラシック作品は、バッハ:マタイ受難曲
私の愛聴盤 武満に捧げられたコンサートの記録
バッハ:マタイ受難曲 BWV244
小澤征爾&サイトウ・キネンO他
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%8F-%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%8F%97%E9%9B%A3%E6%9B%B2-BWV244-%E3%82%AF%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9B%E3%83%95-%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9/dp/B00005FG1F/ref=sr_1_1?s=music&ie=UTF8&qid=1332155504&sr=1-1
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5223807.html
武満→バッハ→平均律→24の前奏曲とフーガ→ショスタコ→マーラー→大宇宙→太陽→月→金環蝕→日本では900年ぶり→900年前→平安時代→琵琶→鶴田錦史→武満
ご紹介の盤も未聴です。ぜひとも聴いてみたいです。
>雅之様
こんばんは。
相変わらず見事な連想ゲーム!
しかもメビウスの環のようです。
ありがとうございます。
ちなみに小澤の「マタイ」は未聴です。
やはりこれまでの余計な概念が邪魔をして聴いていなかったのですが、武満に捧げられていたとなると相当に深い演奏になっているんでしょうね。聴いてみたいところです。