カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管 ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調作品92(1982.5.3Live)

この人は小話的エピソードに事欠かない。
例えば、初登場となる1989年のウィーンでのニューイヤー・コンサートには、指揮者の突然のキャンセルを警戒して、クラウディオ・アバドが楽屋で密かに待機していたらしい。

季節はずれのウィンナ・ワルツ 季節はずれのウィンナ・ワルツ

それに、残された正規の録音は極めて少ない。
しかし、そのどれもがとても充実した内容で、生涯の座右の盤になるはずだ。
(この熱狂が、この躍動がわからない人はいないのではなかろうか)

クライバーは1982年2月に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのある演奏会に飛び入りで演奏したし、またミュンヘンではカール・ベームに恭順の意を表し、ベームが振る予定だった1982年5月3日の演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第4番、第7番を指揮した。彼はこの演奏会をカール・ベームの記念に捧げた。クライバーの心酔者たちは恍惚となり、演奏が終ると果てしないオヴェーションを捧げた。「ミュンヒナー・メルクール」紙は熱狂してこう書いた。クライバーは不当にも低く評価されがちなベートーヴェンの第4番を「威風堂々とした偉大さ」で輝かせ、第7番で「活気に満ちたリズムの饗宴、華麗な響きの放射」を繰り広げ、また「渾身の力を振り絞る全力投球」で聴衆を魅了した。
アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」(音楽之友社)P151-152

オルフェオ・レーベルからリリースされたレコードを聴いて、当時僕は感激した。
(このレコードも30年ほど前に処分してしまったのが悔やまれる)
それまで聴いていた第4番とはまったく次元の違う、「生きた音楽」がそこには刻まれていた。
そして、それから20余年の月日を経て突如リリースされた第7番の、第4番以上のまるで生き物のような音楽に狂喜乱舞した。

クライバーが演奏会の一部をレコード化するという前向きな決心をしたことには、慈善事業が絡んでいて、収入の一部をプリンツレゲンテン劇場の再開に役立てるという意図もあった体。ここは1950年代の初期に彼の父エーリヒ・クライバーが指揮をして歓呼を受けた劇場だった。しかし1963年に老朽化のために閉鎖され、寄付を集めて再建することになっていた。カルロスのこの年のはじめは元気で、3月にミュンヘンで《ばらの騎士》を2度公演し、4月にはミラノで《オテロ》を3回指揮した。スカラ座で彼はウィーンの音楽かエーリヒ・ビンダーに出会った。彼もそのころ指揮をするようになっていた。
~同上書P152-153

カルロスが、父との目には見えない絆を大切にする人だということがよくわかるエピソードだ。久しぶりに第7番を聴いた僕は、やっぱり感動した。快速の、基本的には僕のツボではない解釈なのにもかかわらず、ベートーヴェンの音楽の素晴らしさをこれでもかというくらいに知らしめられた。

クライバー指揮バイエルン国立管のベートーヴェン第4番&第7番(1982.5.3Live)を聴いて思ふ

・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92
カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団(1982.5.3Live)

終演後にフライング拍手はない。
一瞬の間をおいて、パラパラと拍手が起こり、徐々に盛り上がり、歓喜に至るそのプロセスがまた興味深い。何というドキュメントだろう。

ところで、35年ほど前に購入した第4番のCD(PHCF-5305)と2005年にリリースされた第7番のSACDを比較して、音盤の質的には第4番の方が優れているように感じられる。音圧そのものやアタックの切れや、そういうものが明らかに第4番のCDの方が鋭く、重く、リアリティがあるのである。

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