
たしかに私の映画のなかには、たくさんの水が出てきます。水や河や小川が、私に非常に多くのことを語りかけてくるのです。私はこういう水がたいへん好きです。海はどうかですって? 海は私の内的世界とはどこか異質のところがあります。一様な空間が広がりすぎているからでしょうか。私の〈個〉としての観点からいうと、〈マクロ・コスモス〉よりも〈ミクロ・コスモス〉のほうが、はるかに多くのことを語りかけてきます。巨大な空間よりも、小さな制限された空間のほうが、多くを語るのです。日本人の自然観、彼らの自然にたいする態度が好ましく思われるのは、このためです。日本人の空間は非常に小さい。彼らはその小さな空間に集中していき、そのなかに無限の反映とでもいうべきものを見出すのです。このような閉じられた空間のほうが、私にはいっそう身近に思われます。
ロシアでは、イタリアよりもはるかに多く、大量の水を見ることができます。私は水が物として好きなのです。なによりも水は、謎めいた物質です。御存知のように、水はH₂Oという単純な分子ひとつで構成されています。しかしこのことでさえたいして重要ではありません。問題は水がとてもダイナミックだということです。水は動きを、深さを、変化や色彩を、反映を伝えます。これは地上でもっとも美しいもののひとつです。水よりも美しいものは、存在しません。水のなかにその姿を映しだすことのなかった現象は、自然のなかにはひとつとして存在しません・・・おそらく、水を示すためにひとつの側面だけを取出すことは、正しくないでしょう。私には水のない映画など、考えることができません。
~「月刊イメージフォーラム」1987・3増刊No.80追悼・増補版「タルコフスキー、好きッ!」(ダゲレオ出版)P69
タルコフスキーの思考の原点たる「水」。
「海」とはまた異質だというのは、分霊たる一滴の「水」そのものを我が身に彼は感じていたのだろうと思う。しかも、現代社会の問題たる分断を、彼は人一倍痛感しつつ、映画を通じてその統合を図ろうとしていた。
「水」はシンプルだ。そしてまた、真理そのものだ。
上善は水の如し。
(老子)
水が持つ柔軟性、謙虚さ、万物への恩恵など、僕たちは学ばねばならない。
そして、タルコフスキーが言うように、水はとてもダイナミックで美しい。
アントン・ヴェーベルンからピエール・ブーレーズを通じてジョン・ケージへ。
ケージはそこから啓示を受け、音楽に沈黙を持ち込んだという。
(それはまさにイングマール・ベルイマンやアンドレイ・タルコフスキーの映像世界と通じる)
タルコフスキーの「ノスタルジア」
ベルイマンの「魔笛」を観る 楽譜の廃止こそが音楽史のクライマックスだった。
規則的な相互作用、あるいは一貫性、そういった制約から解放された、いわばアナーキズムこそジョン・ケージの青写真だった。
地球が汚染され、夜空に星が見えなくなる寸前のあの頃、ケージは黄道沿いの最も明るい星々を楽譜に記した。56の器楽のための「アトラス・エクリプティカリス」は1961年に作曲された。
1958年の「ヴァリエーションズI」では、あらゆる人数、あらゆる種類、そして数々の音響生成手段を用いて、ケージの作曲プロセスは極限へと進み、絶対的不確定性へと傾斜した。無限に多くのバリエーションが可能になり、音楽の問題は根本的に、音楽を可能にする問題へと変容した。
ケージとバッハを対比したとき、それぞれの音楽は独自のものでありながらチェロの特性を最大限に生かさんとするミクロ・コスモスの顕現だということがわかる。
水の如く柔軟であれ。
マラルメ作品のために、僕はバッハの声楽曲を全部持って来た。何たる心の糧! 甚だしい威嚇だね。
(1950年6月、ブーレーズからケージへ)
~ナティエ&ピアンチコフスキ編/笠羽映子訳「ブーレーズ/ケージ往復書簡1949-1982」(みすず書房)P94
バッハはあまりに偉大だとブーレーズは恐れ慄く。
ケージは答える。
君は「リズムおよびその十二音音楽技法との関係」;「ラヴェル、シェーンベルクおよびストラヴィンスキー」;「アントン・ヴェーベルンの業績」について講演でき、自作の第2ソナタを演奏し、かつ分析できると言っておいた。でも、最終的に、君がしたいことを言えばいいんだ。僕はまた君のためにタングルウッドでの講演の手はずを整えてみるつもりだ(ということはA.コープランドに頼んで)。
(1950年6月24日付、ケージからブーレーズへ)
~同上書P100
何と素晴らしい切磋琢磨!
アンドレイ・タルコフスキー39回目の命日に。
(朝比奈隆の24回目の命日でもある)
ガウヴェルキのジョン・ケージ「チェロのための作品集」(2002.12録音)を聴いて思ふ 