マッケラスの「利口な女狐の物語」を聴いて思ふ

janacek_cunning_little_vixen_mackerras「利口な女狐の物語」の独訳者マックス・ブロート宛への手紙でヤナーチェクは、故郷の村での殺人事件をとりあげて、次のように語っている。

刑期を終えて土地へと戻ったとき、村人たちは彼を避けたとお考えですか。いいえ、彼らは何事もなかったようにこの男と口をきき、以前と同じように付き合いました。私にとってこの出来事は、普通の人々にとって悪というのは永遠に続く恥辱ではないということの確証です。それは起きますが、それきりです。

いや、善だろうと悪だろうと、時間の経過とともに、当事者以外は誰もがすべてを忘れてしまうもの。ヤナーチェクは同じ手紙で「こうやって善き事も悪しき事もまた繰り返されるのです」と結んでいるようだが、事に人間が関わる以上、そう、人間の浅薄な「利己」が絡む以上そのことは終わりがない。そもそも「善悪」など人間が作り出した概念に過ぎず、その意味では「幻」だ。動物はそんなことを一切考えない。

自然は雄大で、僕たち人間の想像を超え、命を育んでいる。動物だってそう。名作「利口な女狐の物語」を聴いて考えた。作曲家は生命の輪廻を思想の根底に置いているようだが、僕たちはもはやその輪廻の輪、すなわち善悪という二元論の枠を超えてゆかねばならないのでは・・・。

何と言ってもルチア・ポップ!!女狐ビストロウシカ役のルチア・ポップの可憐さと言ったら!!!言葉にならない・・・。

ヤナーチェク:歌劇「利口な女狐の物語」
ルチア・ポップ(ビストロウシカ、ソプラノ)
ダリボル・イェドゥリチカ(猟場番、バス)
エヴァ・ランドヴァー(男狐、メゾ・ソプラノ)
リハルト・ノヴァーク(穴ぐま/神父、バス)
ヴラジミール・クレイチーク(校長/蚊:テノール)
ヴァーツラフ・ズィーテク(ハラシタ、バリトン)
エヴァ・ジグムンドヴァー(猟場番の女房/ふくろう、ソプラノ)
リブシェ・マーロヴァー(ラパーク、メゾ・ソプラノ)
ベノ・ブラフト(パーセック、テノール)、ほか
ウィーン国立歌劇場合唱団
サー・チャールズ・マッケラス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1981.3録音)

ヤナーチェクはワーグナー同様、女性の純愛が人類を救うと考えていたのだろうか?第1幕第2場における雄鶏たちへのビストロウシカの興味深い語り。

ねえ、皆さん、あんたたちのおかしらをご覧よ!
性欲のためにあんたたちを求め、お返しに人間から報酬をもらってるのよ。
皆さん!皆さん!古い体制をとり除くのです!
新しい世界を創るのです、みんなが平等に
喜びと幸せを分かち合える世界を!

これに対し、雌鶏たちは「雄鶏抜きで?」と嘲笑うのだ。第2幕でビストロウシカも雄狐もこれまで恋をしたことがないことがわかる。そう、純潔の女性こそがヤナーチェク自身の理想の女性像であった。そして、そういう女性こそが世界を(あくまでヤナーチェク的世界)救うんだと彼は本気で信じていたんだ。

第2幕第4場でのビストロウシカと後に結婚する雄狐の台詞。

ぼくは嘘つきじゃない、他人をだます狐じゃない。
心に思ってることをそのまま話してるんだ。
僕の愛してるのは体ではなく、きみの心さ。

これはほとんどヤナーチェク自身の38歳年下の人妻であるカミラ・シュテスロヴァーへのプラトニックな愛の告白のようだ。なるほど、この作品はいかにも自然讃歌と生きとし生けるものへの愛と感謝を伝える物語の態をとりながら、実にヤナーチェク自身の極めて個人的な心情告白だということ。そのせいか音楽の質は「恋沙汰」の場面においても実にクールで枯れている(ように僕には感じられる)。

オペラのクライマックスはやっぱり第3幕だろう。それも、作曲者自身が葬儀に使ってほしいと言い残した猟場番の最後のモノローグは純白の世界・・・。
マッケラスの棒はさすが。

※太字は日本ヤナーチェク友の会編「利口な女狐の物語」対訳と解説より引用

 


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岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] 人間世界の酸いも甘いも、レオシュ・ヤナーチェクの選択する歌劇の題材は、いつもとても興味深い。何より僕は彼の思想に触発され、啓示を受け、いつも考えさせられるのである。 例えば、「利口な女狐の物語」では、生命を育む自然の雄大さと神秘から、作曲家の描く輪廻を超え、その環からいかに逃れねばならないかを教えられた。 あるいは、「カーチャ・カバノヴァー」からは、現実には決して越えられない、否、越えてはいけない関係があり、間違って越えてしまったときの(目には見えない)業というものの恐ろしさを知った。そしてまた、生こそが死であり、死がいわばあらゆる苦悩からの卒業であり、浄化なのだということを「死者の家から」からあらためて学んだ。 […]

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