
わたし自身がクレンペラーを見たのは1970年のことだ。それは彼の最後の演奏会のひとつでもあった。ボンのベートーヴェン音楽祭のコンサートである。そのころ、わたしは音楽学を学びはじめて二学期目で、タダ券をもらえたことを誇らしく感じたものだ。クレンペラーはそのときもう85歳。亡命生活とたくさんの病気や怪我の痕跡が刻みこまれた老人で、自分のロンドンのオーケストラを率いてベートーヴェンの《英雄》を指揮した。ひどく遅い演奏だった。それにいつも正確というわけではなかった。だがわたしには、結晶のようにすばらしく透き通り、首尾一貫しているように思えたし、まったく「英雄的」ではなかった。年上の学生たちは、クレンペラーについて囁かれていた数知れぬ逸話を教えてくれたものだ。クレンペラーの怒りの発作、スキャンダル、売春宿通い、そして彼が言い放った冗談とかそういうものだ。上級生たちの話では、クレンペラーは同業者について毒舌をふるっていたという。たとえばジョージ・セルが指揮したドビュッシーの《海》を評して、「ありゃ海じゃない。湖畔のツェル」だと言ったとのことである。
~エーファ・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P2
訳注にあるが、「湖畔のツェル」とは、セル(Szell)+海(See)とオーストリアの観光地ツェル・アム・ゼー(Zell am See=湖畔のツェル)を引っ掛けた洒落らしい。こういうダジャレが即出て来るところも粋なクレンペラーの真骨頂だ。
ちなみに、ボンのベートーヴェン音楽祭は9月に開催されるから、ヴァイスヴァイラーが見たクレンペラーはBBCが放映したツィクルスの後のことだったのだと思われる。クレンペラーの年齢と体調を考えると、月日を追う毎に衰えも目立って行っただろうゆえ、「決して正確というわけではなかった」「まったく英雄的ではなかった」という印象だったこともわからなくはない。それでも一世一代の巨匠のベートーヴェンが実演で享受できたことは彼女にとってかけがえのない経験だっただろうと想像される。



実際、その4ヶ月前のロンドンはロイヤル・フェスティバル・ホールでのツィクルスは、いずれもが空前絶後の、クレンペラーの最終解答たるベートーヴェンだ(僕がはじめてこの映像に触れたのは、2002年頃だったか、クラシカ・ジャパンで放映されたときだった)。
ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1970.5.26Live)
終楽章冒頭など、一瞬崩壊しそうになるも、オーケストラはすぐに立て直し、柔和で語り掛けるような変奏に入る。クレンペラーの各奏者への指示は絶妙で、動きにくい身体と両手を使い、果ては鋭い眼光(しかし優しい)までを使って音楽を創造する様子がカメラにしっかり捉えられているところが凄い。
そして、第1番は、同じく重厚で意味深い再現が施されるが、内から醸される音調は平和で牧歌的なものだ。
クレンペラーは書く。
多くの人は、ベートーヴェンは愁いに沈む、悲観的で、陰鬱な性格だったと思っている。それは歪曲された説だ。彼は—とくに若いころの彼は—陽気で快活な人間だった。彼の『第1交響曲』と『第2交響曲』はそれを如実に物語っている。『第4番』ですら幸せに満ちた雰囲気を漂わせている。
「ベートーヴェンについて」(1961)
躁鬱気質だったクレンペラーならではの解釈は、ベートーヴェンの聖なる心境を見事に表現する。