コルトーのマスタークラス ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調作品81a「告別」

1933年5月13日、コルトー=ティボー=カザルス三重奏団が最後のコンサートをフランス北東部のストラスブールで開いた。この数ヵ月前から、おもに政治的見解の相違によって、3人は対立していた。1934年に、ドイツの指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーからベルリンに招かれたとき、カザルスとティボーはそれを拒否し、コルトーは行きたがった。カザルスは、3人がみな政治的に同じ立場でありたいと望んでいたと思われる。以後、彼らは別々の道を歩んだ。
ナチス・ドイツに協力したコルトーは、カザルスのことを「アナーキズムの信奉者」よばわりした。ティボーは、ナチス・ドイツのために演奏したが、ドイツで演奏するようにとの圧力には屈しなかった。カザルスのかたくなな態度を残念に思った彼は、こういっている。「どうして政治的信条が、音楽に選ばれたこの上なく才能に恵まれた人間を、聴衆から奪わなければならないのだろうか」

ジャン=ジャック・ブデュ著/細田晴子監修/遠藤ゆかり訳「パブロ・カザルス―奇跡の旋律」(創元社)P59

世界がいよいよ分裂し、個がますます大きく分断されて行った時代の象徴のような出来事だ。
実に難しい時代である。

こうした取り組みによって、鋭い政治意識や道徳意識がかき立てられた彼は、特にヒトラーの独裁体制をはじめ、ヨーロッパにおける多くの独裁体制の台頭に対して立ち上がった。彼は1933年、ドイツで演奏することを断固拒否し、コルトーとティボーにも同じ道を歩ませようとした。とりわけフルトヴェングラーが1933~34年のシーズンにベルリンで演奏するようトリオを招待したとき、二人は逡巡したが、ティボーはカザルスの意見に同調した。コルトーははるかに煮え切らない態度だった。とはいえピアニストの後年の(ドイツによるフランス占領期における)活動について知られている事柄だけで早合点してはならない。というのも、1930年代初め、彼の態度にはファシズムに対する共感を示すようなものは一切なかったからである。彼は1933年夏、「ドイツで演奏を聞かせることと、演奏以来の承諾がドイツ政府によって講じられた一部の音楽同業者(つまりユダヤ人音楽家)に対する措置の黙認を暗に示しかねないこととの間に関係性を持たせる考えは一瞬たりともよぎらなかった」と述べている。その一方で、カザルスを含む一部の友人がこの件について彼に警告したとも述べた。それゆえに、おそらく特にベートーヴェンとワーグナーの国で「契約を履行しないことは(彼にとって)誠に振本意ではあるが」、「ユダヤ系芸術家に関するドイツの政策」を勘案し、公演を取りやめることにした。しかしコルトーは翌年、立場を180度変えた。フランス芸術活動協会(AFAA)が芸術交流を政治問題と切り離すことを確約した一方、フルトヴェングラーが「芸術家は芸術王国を救うだけでなく、その永遠かつ中立的な価値をすべての束の間の事象から守るべきだ」と主張し、重ねて彼を招待したからである。この立場はカザルスのそれとは正反対だったが、コルトーは賛同した。
フランソワ・アンセルミニ+レミ・ジャコブ著/桑原威夫訳「コルトー=ティボー=カザルス・トリオ 二十世紀の音楽遺産」(春秋社)P169-170

いつ、どんなときも善にも悪にも偏らないことだ。(第三の眼で見よ!という教訓)
いずれにせよ「私が正しい」という思考のぶつかりに過ぎないのだということを理解すべきだろう。誰もが正しく、また誰もが間違っているのだということを知るが良い。

1954年から60年にかけてエコール=ノルマル音楽院で行われたアルフレッド・コルトーのレッスンの記録。レッスンの記録ゆえすべてが部分演奏だが、それぞれに目を瞠るものがある。中で、(個人的に)ベートーヴェンのソナタについてのコルトーの見解が興味深い。

ルドルフ大公との別れと再会を描いた「告別」ソナタのコルトーの解釈は、ペライアが言うように男と女のラヴ・ストーリーに生まれ変わっている(第2楽章は強いられた別れを耐え忍ぶ恋人たちの苦悩を描いた「トリスタンとイゾルデ」第3幕を連想させるのだと)。

先ほど、テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックという名前を出したが、彼女がこの作品の本当の主人公。
~SICC 226-8ライナーノーツ

このアンダンテの性格、この”不在“の性格は、ワーグナーの音楽の性格とよく似ていて、様々な感情が充満している・・・ね?・・・もはや何も存在しない日常の悲しみ・・・でも激しすぎる調子はない・・・さらに表情豊かに・・・悲痛な気持ちを込めて・・・ここはよく弾けてました・・・、ムッシュー・・・

ここからフィナーレ。華々しい音楽。これは”再会“ではない。これは驚き、天にも昇るような喜びだ。これから先どうなるのか、もう分からない。自分自身の幸福が信じられないという気持ち・・・ここにあるのは喜びではない。心の動揺。その2つは同じものではない。ここでは、中間部全体が会話に、対話になっている。

いかにもコルトーらしい、実に人間的な解釈であり、そしてそのことを如実に表現した浪漫の音楽だ。ミスタッチすらそのことを示す「音楽」として成立するのだから凄い。

・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調作品81a「告別」
アルフレッド・コルトー(ピアノ)

心の琴線に触れる老練のベートーヴェン。
確かにテレーゼが主人公だというコルトーの解釈もわからなくもない。
極めて個人的なラヴレターのような心情吐露。
命がけのような演奏に涙が出る。

アルフレッド・コルトーのマスタークラス(1954-60Live)を聴いて思ふ アルフレッド・コルトーのマスタークラス(1954-60Live)を聴いて思ふ

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