細かい雨が優しい。弥生の慈雨。(PM2.5が気になるけれど・・・笑)
何も考えたくなくてヤナーチェクを聴いた。「霧の中で」。まさにそんな気分・・・。
自然とひとつになる感覚を掴む。それも真夜中に。
彼の音楽には、その時代にまつわる出来事や個人的なエピソードなどが大抵の場合反映される。「頭」で聴こうとするとその作品に対する理解は一層深まるのだけれど、今日は余計な思考を入れず、ただ音楽のみにひたすら耳を傾ける。アンプのボリュームを極力絞り、戸外の雨粒のしとしとと、スピーカーから流れるフィルクスニーの演奏するピアノの音を同調させる。
ヤナーチェクは気難しい男だったのか。武力によって斃されたフランティシェーク・パヴリークを追悼して生み出されたピアノ作品「街頭より」は、作曲者自身が気に入らず、破棄された。しかし、初演者であるルドミラ・トゥチコヴァーが後に筆写譜を持っていることを表明、あらためて「1905年10月1日」というタイトルで蘇演された。
何という哀しみ、何という怒り。
ヤナーチェク自身が作品をどのように捉えようと音楽そのものは正直だ。彼は自然や宇宙、森羅万象をわかっていた。そして、おそらくバルトークのように大切にした。そのことは、作品を聴けば自ずとわかる。
ヤナーチェク:
・ピアノ・ソナタ「1905年10月1日、街頭から」(1971.5録音)
・霧の中で(1971.5録音)
・ピアノと室内オーケストラのためのコンチェルティーノ(1970.10録音)
・左手ピアノと管楽器のためのカプリッチョ(1970.10録音)
ルドルフ・フィルクスニー(ピアノ)
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団員
「霧の中で」は哀惜の音楽だ。どうしようもない哀しみに包まれる。現代のヒーリング・ミュージックに通じる「原点」がここにある。潤いのあるフィルクスニーのピアノが輪をかけて哀しみを助長する。
「コンチェルティーノ」のとぼけた響きに晩年のヤナーチェクのプラトニックな恋を感じる。管弦楽とピアノの濃密な掛け合いがそのことを物語る。ここでもフィルクスニーは雄弁だ。
「カプリッチョ」第4楽章ではバルトークが木霊する。しかし、ヤナーチェクの音楽はバルトークより一層洗練された響きをもつ。フィルクスニーの左手が炸裂する。
何だかヤナーチェクの、「自身が生み出したもの」が納得いかない時の破棄したくなる気持ちがわかってしまう。
人気ブログランキングに参加しています。クリックのご協力よろしくお願いします。
にほんブログ村